2013年02月12日

□29:ふるさとは遠きにありて思ふものそして…=広島市・安芸郡府中町(広島県)

 考えてみれば、飛行機よりもその歴史は浅い。ラジオ放送が始まって100周年には、まだ数年ある。確か1925(大正14)年、そんなもんなのである。
 記憶にあるラヂオ(あるいはラヂヲか)は茶色い木目の四角い箱だった。二つか三つのつまみダイアルと、くりぬきの穴にはざらっとした布が張ってあり、その奥にはスピーカー、周波数のパネルもあったような気もするが、あまりよく覚えていない。局は一つ(第二放送あったかな)なのだから、どのみちこれを見る必要はなかった。「National国民受信機」と書かれた小さなラベルのある裏板を開けると、真空管が二三本心細く光りながら、小さく唸っている。
 残念なことには、このラヂオで8月15日の放送を聞いた記憶がないのだが、「街頭録音」「のど自慢」「君の名は」「話の泉」「二十の扉」などといった大人の放送もよく聞いていた。なかでもいちばん気に入っていたのが三木鶏郎の「日曜娯楽版」だった。これは遠慮会釈のない政治批判・社会風刺のコントショーだったのだが、時の政府に睨まれてその圧力で潰されたという、いわく付きの番組として放送史に残ることになる。そんなことは知らず、毎週日曜日を楽しみにしていたが、反骨皮肉へそ曲がりの精神は、実はこのときにその大本があったのかもしれない。
 また、「浪花演芸会」の落語に漫才、そして祖父の聴く浪曲や講談にも耳を傾けていた。
 そして、もちろん夕方の子供番組には、外で何があってもその時間に間に合わせて放送を聞きに急いで帰ってくる。それが、当時のこどもにとっては欠かせない、大切な暮らしの時間なのであった。「鐘の鳴る丘」そして「笛吹童子」に始まる一連の「新諸国物語」や、「おらあ三太だ」「一丁目一番地」などのいわゆる「連続放送劇」は、刺激の少ない地方の町外れの子供にとっては、唯一の娯楽であり知識であり、想像を広げられる夢の世界でもあった。
 しばらくして、民間放送が始まり広島でもラジオ中国で広島カープの試合を放送するようになると、ラジオにかじりついてスコアブックをつけたりもした。
 「ラジオ歌謡」は聴いても、この当時第二放送でやっていたらしいクラシックの番組やみんながよくいうFENを聴くような環境ではなかったのが、今頃なぜか悔しい惜しいような気がする。鉱石ラジオのキットを、少年雑誌の広告の通販で買って組み立てて、水道管をアースにしてかすかに聞こえたときの喜びも、そこからさらにラジオ少年に進化させるまでではなかったのも、なぜか今頃になって残念な気もする。
 それは、ラヂオの放送が始まってから、間に戦争と敗戦を挟んで、たった二十数年のことだったのだ。
         ◇         ◇
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 オレンジと緑のツートンカラーの“湘南電車”が、発祥の地である東京駅から姿を消してもう十数年になる。それは、1950年に初めて登場した車体塗装の先駆けだったのだ。それまで汽車や電車の色といえば、濃い茶色のようなブドウ色のような地味な色と決まっていた。
 そこに登場したのが、目にも鮮やかな配色の湘南電車で、国民の戦後復興に向けた期待にもつながったという意味で、このカラーはただ単なる「電車の色」ではなかった。
 中長距離初の電車として、東京=沼津間で運行を始めた80系で採用されたこの色は、「警戒色のオレンジとその補色の緑」だったというが、そもそも郊外電車というものがなかった(市電の延長で走る宮島線はこれに該当しない)当時の広島の中学生でさえ「ミカンと葉っぱの色」だと思って、その沿線の風景を想像していた。
 見たこともなく、もちろん乗ることもかなわない湘南電車は憧れの対象だった。四角い箱ではなく、流線形とまではまだいっていないが車両先頭の運転台にちょっと斜めに角度がついたスタイルと、オレンジ色と緑色とに塗り分けられた車体は、大きな夢につながっていた。
 模型店のウインドウの中に、そのキットを見つけて、どうしてもそれを作ってみたくなった。プラモデルなどというものは、まだなかった時代、模型といえば木製の部品を削り加工して、組み立てて塗装するソリッドモデル(結果的に電車の場合は中空になるのでサーフェスモデル(中空図形)なのだけれども)だった。その吹き付け塗装だけを、店に頼んでいた。
 塗装ができて引き取りに行った日は、春も浅い冷たいかなりの雨が降っていた。風呂敷に大事にくるんで片手に抱え、片手に傘をさして銀山町(かなやまちょう=この字でこう読む地名は全国でここだけだ。まあ、いってみれば広島の兜町)の並びにある勧業銀行広島支店の石壁に沿って歩いているとき、大きな水たまりを跳んだつもりだったがよけ切れず、「しもうた!」と思ったたときにはもう遅い。水の下に隠れていたふたのない深い雨水升に、どっぷりはまってしまっていた。やれやれ、困った。下半身ずぶぬれで…。
 そのとき、通りかかった背広姿のおじさんがすぐ手を貸してくれて、建物の地下に連れていってくれた。そこは、銀行の食堂らしかった。昼下がり昼食時間はとうに過ぎていた。おじさんは、そこにいたおばさんに一言二言いうとすぐに消えた。おばさんたちは、とんだ災難だったと気の毒がって、ストーブにあたれ、ズボンを脱いで絞って乾かせと、しきりに世話をやいてくれた。風呂敷も広げてみたが、模型は壊れていないし、木製だからぬれたくらいはどうでもなかった。
 そして、うどんをつくって、体が温まるからとすすめてくれた。ありがたくいただいた、そのうどんのおいしかったこと…。
 世慣れない中学生は、そのときのおじさんやおばさんに、ちゃんとお礼をいえたのかどうか、思い出すとときどき気になる。その後社会人になってから、勧銀には口座を開いた。預金残高はわずかだが、いまもその銀行の口座は持っていたりする。銀行の名前は、何度も変わった。
 湘南電車のソリッドモデルの塗装に、なぜ自分で刷毛で塗らずに、わざわざ店に頼んでまで吹き付け塗装をしようとしたのだろうか。より本物らしくしたいためだったのだろうが、いま思えばそれも不思議なのだ。そのときは、なぜかどうしても、そのオレンジと緑の色は、そうでなければならぬような気がしていたのだ。
 それは、意識しないまま、湘南電車への憧れが、東京への都会への憧れにつながっていたのだろうか。 
         ◇         ◇
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 幼年期に刷り込まれたことは、一生残るものがある。茶色写真のなかの一枚には、タスキをかけマイクを握って選挙演説しているおじさんがいた。「広島に復興の希望の灯をともすプロ野球チームをつくりましょう」と。その人が立つ大型トラックの荷台の横には、「谷川昇」と書いた幕が下げてあった。その人の尽力は大きかったと聞いているが、一人の力ではもちろんない。二リーグ分裂にともなうチャンスに、広島の大勢の人の努力によって、広島カープは生まれることができた。当然ながら、大人もこどももみんな例外なくカープファンになった。
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 小学校の時には担任の先生が、軟投技巧派のエースの名前と同じで、教室で騒ぐこどもにチョークを投げて「ピッチャー長谷川!」とふざけたり、中学校では資金集めのために、選手の写真とサイン入りのビニール風呂敷が売られたりした。
 球団創設直後から始まり、その後も絶えることなく続く長い苦難の道を、ファンもあるときは貧者の一灯のタル募金で支え、万年最下位争いをしていて、一番高い目標が「勝率五割」だった田舎の弱小球団を、どこにも負けない誇りと情熱をもって応援し続けてきた。
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 それは、市民の熱狂的な応援の工夫にも表れ、昔から内外野のスタンドのさまざまな名物を、他に先駆けて編み出してきたのである。ラッパのおじさんは軍隊ラッパを鳴らしていたが、今はトランペットのコンバットマーチになった。相手がアウトになるたびに鐘を鳴らして囃すのも、今ではどこの応援団もやっているが、カープ応援団の創作だった。
 ラッキーセブンに風船を飛ばすのも、カープファンが始めたのだが、これについてはでんでんむしも少しだけからんでいる(つもり)。始めの頃、風船は青や黄色や赤などさまざまな色が入り混じっていた。これはやはりカープの応援用を強調するためには、色を赤に統一したセットで風船を売るようにすべきではないか、その気になれば簡単にできることだ…と、いつもラジオの実況中継を聞いていたRCCの「インターネットスタジアム」に書き込みをした。その翌年から、カープの風船は赤に統一された。
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 いまさらなのだが、野球というゲームは、実によくできていて、誠におもしろい。ストライクを投げれば狙い打ちもされやすいし、ボールを投げれば打たれにくいが、スリー・ストライクでバッター・アウトになり、フォア・ボールでランナー一塁になる。スリー・アウトで攻守をチェンジし、表と裏で一回になり、それを九回まで繰り返す。ホームランで一点になり、いい当たりでもアウトになり、いい当たりでなくてもヒットになる。コントロールミスだろうがわざとだろうが投手が打者に当てればペナルティが科せられる、打者が塁に出てランナーとなって後続打者のヒットで進塁し、ベースをぐるりと一回りしてくれば得点となる…。
 こういった野球の基本ルールそのものも、なにやら人生というゲームの一端を暗示しているような部分もあり、これにさらに個々のプレーヤーの磨かれた技術や判断、それに監督の采配や作戦が加わって、よりゲームとしての複雑性を増していく。「筋書きのないドラマ」という陳腐な形容にも、異論をはさむ余地がない。ゲームだから、勝ったり負けたりするのも当たり前、単にシロかクロかではなく、要は最終の率の争いである。そしてなによりも、とにかくなかなか思うようにはならない…。
 新しい球場が広島駅にも府中にも近いところにでき、原爆ドームの向かいにあった市民球場はもう取り壊されてしまった。大事なことは、みんな野球に教わった。よくある慣用句でまとめれば、そういうことだった。
 いまは、広島東洋カープは、根無し草のように風に吹かれているでんでんむしと、ふるさとをつなぐ、唯一の紐帯なのだといってもよい。
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         ◇         ◇
 でんでんむしのふるさと、青崎の、小中学校時代の記憶を掘り起こそうとすれば、あれこれきりがない。
 若さ故の過ちも数限りなく、少年時代のはじめから胸にトゲさすことばかりで、苦い思い出もたくさんある。 
 中学の教科書にもあったのか、室生犀星のあの有名な詩の一節がどうしても浮かんできてしまう。ふるさとからも肉親からも見捨てられた金沢生まれの詩人は、それでもその名前にふるさとの川の名から一字をとっている。そのふるさとに抱いた感情とはまるで別物で、とても「異土のカタイとなるとても」といった固い覚悟もない。だが、その冒頭のフレーズは妙にしっくりとなじんで居座ってしまう。
   ふるさとは遠きにありて思ふもの
   そして悲しくうたふもの
   よしや
   うらぶれて異土の乞食となるとても
   帰るところにあるまじや

▼Google Map
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dendenmushi.gif(2013/02/11 記)

「ある編集者の記憶遺産」は、これでいちおう終わりです。この続きは、「思い出の索引」年表に引き継がれています。

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2013年02月11日

□28:やはり東洋工業とバタンコのことは欠かせない記憶…=安芸郡府中町新地(広島県)

 東洋工業は、松田重次郎が創業し、松田恒次が伸ばし、松田耕平がみとった。戦前から、コルクやさく岩機などの製造をやっていたが、発展の基礎を築いたのは、なんといってもバタンコの製造で、これが後に自動車メーカーへと成長していく源となった。“バタンコ”というのは、やはり説明も必要だろうか。三輪トラックのことである。前輪が一つで、これにスクーターのハンドルのような大きいのが直結して、方向を決める。同時にこれが駆動部分で、運転者はエンジンの後ろにまたがるようにして乗る。その横には小さな助手席がついている。後輪の上には四角い荷台がついていて、主に荷物を運ぶためのトラックである。オートバイのように、足でスターターを強く蹴ると、バタバタとエンジンが起動する。
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 東洋工業では、これを戦前からつくっていた。広島市の東の端にあったため、原爆による直接被災をかろうじてまぬかれた工場で、終戦の翌年からはその生産を再開し、それから10年後には累計で20万台を数えた。バタンコは、各地で「バタバタ」とか「オート三輪」とか呼ばれ、戦後復興に大いに貢献した運送手段だった。ダイハツやくろがねもあり、ほかにもみずしま?といったメーカーもあり、東洋工業(ブランド名=マツダ)の独占とはいえなかったが、とにかく一世を風靡した車だったのである。
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 青崎中学校に通っていた頃、印象に残るできごとがあった。いわゆる企業城下町という意味では、何ほどのこともなかったが、その中学校には、お膝元だけあって、東洋工業で働く社員工員の子弟も多く、当時は彼らは地域のエリートのこどもだった。地元の有名大企業という意識はそれなりにあり、工場見学にも行ってバタンコの製造ラインを見たことがある。
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 どういういきさつがあってかは知らないが、東洋工業が一台の中古バタンコを、中学校に寄贈してくれたのである。さっそく「自動車部」なる部活もでき、湿地を生徒みんなで土を運んで埋め立ててつくった校庭を、バタバタと走っていた。中学生で免許もないのに…? こども心にも、「ほーかぁ。ええ会社いうなーそういうこともするんじゃのう」と思った記憶がある。
 当初は吹きさらしだった運転台にも、屋根がつきドアがつき、前輪丸出しでカクカクとしたデザインも丸みを帯びたスタイリッシュなものに変わっていった。
 それらの製造工程の一部は、周辺にできていた下請けの工場でもつくられていて、でんでんむしの“わが谷は緑なりき”の下流の線路近くにも、そうした工場が拡がっていた。工場から油膜の虹色を反射する排水が、小さな川にも流れ出し、イトウナギもいなくなってしまう。
 東洋工業が三年連続でトヨタ・日産を抑えて、自動車生産台数でトップを守ったこともあるが、巨大化した恐竜が絶滅するように、大型化したバタンコの最期はあっさりとやってきた。が、それを契機にした東洋工業は“R360クーペ”で小さな四輪メーカーに転身を図る。
 ほんとうに今から見れば、小さくてまるっきり遊園地の乗り物のような車であったが、偉大な四輪自動車なのである。1960年に発売されたこのクーペこそが、日本人が初めて“自分で買える”と思った車だといえる。一般に、その数年前に出ていたスバルがそうだといわれるが、30万円という価格の点で、これこそが日本の庶民でも車が買えるという夢を広く実現させ、モータリゼーションの黎明を引き寄せ牽引したことは確かだ。
 R360クーペが出て、広島の町でもたくさん走るようになった頃には、もう広島のイーストエンドを離れていた。地元だったという以外に、何の接点もなかったが、その後の画期的なロータリーエンジンの不運や、企業買収などさまざまな荒波に揉まれ変貌していった東洋工業には思い入れがあり、つい身びいきになる。
 やっぱり車を買うならマツダだな、といっても、免許をもたないので車もいらないし買わない。
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 東洋工業は社名もブランド名のマツダに変わり、経営も松田家の手から離れた。その間、工場は黄金山の南の海へ拡大し、大きな自動車輸送船が宇品工場に接岸するようになり、猿猴川には4本もの橋ができ、高いバイパスが広島湾の東端をよぎるようになった。苦労しつつも、いちおう世界にも進出する四輪メーカーとしての歩みを続けている。
 いまの地図でみると、マツダの本社があるところは、安芸郡府中町新地となっている。鹿籠(こごもり)や桃山には覚えもある。だが、新地とはこれまで聞いたこともない地名だ。全部が東洋の敷地だったから、一般に周知していなかっただけなのだろうか。

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dendenmushi.gif(2013/02/10 記)

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2013年02月10日

□27:こどもの頃ほしかったものは写真機と万年筆で… =広島市(広島県)

 こどもの頃ほしかったものは、写真機と万年筆であった。今では物欲はないほうだと自信を持っていえるが、こどもはそうではない。あらゆるものに飢えていて、ほしいものはたくさんあったような気がするが、たいていそれが満たされることはなかった。なかでも、この二つは、のどから手が出るほどだったが、やはり手にすることは叶わなかった。
 写真機は、長い間憧れではあった。手が届かないカメラとも写真とも違うが、日光写真というのも流行った。雑誌の付録にカメラと溶かして使う現像・定着液がついたということもあったが、そんなもので写真がうまく撮れるわけもなかった。いちばん確かに成功したのは、ピンホール・カメラだったが、これもホントのカメラとは違う。
 中学生の終わり頃だったか、当時いちばん安いスタートカメラというおもちゃのような、固定焦点のボックスカメラが初めて手にしたカメラだった。結局、一時ブームになった二眼レフカメラは、どうもこれは格好があまり美しくないので敬遠し、本格的なカメラはだいぶ後に給料をちゃんともらえるようになってからだった。DPEも自分ではやらなかったし、その後もちょっとだけ芸術的写真に志向したことはあったが、それ以上写真に大きく引き込まれることはなかった。
 小学生の頃は、敗戦直後とあってろくな筆記用具はなく、鉛筆は削りにくく芯はガリガリして折れやすかった。当時の鉛筆はトンボでも三菱でもなく、いいほうで丸いマークの「地球鉛筆」か三角のマークの「コーリン鉛筆」だった。
 万年筆を買えたのは、中学生になってからだった。
 その前に、小学校4〜5年生の頃だったか、NHKラジオのクイズにハガキを出して、その賞品に金色に輝く細身のシャープ・ペンシルが送られてきたときには、ものすごくうれしかった。
 ずっと後になって知ったことだが、この胴を回せば鉛筆の芯だけがするすると出てくる画期的な筆記用具は、早川電機工業の創業社長早川徳次が発明したのだった。その縁を大事に感じて、自分で初めてレコードプレイヤーを買うときは、シャープのを買っていた。
 かつては“目のつけどころがシャープでしょ”で、飛ぶ鳥も落とす勢いだった電機会社は、その名を社名にしてきた。が、どこで目のつけどころを間違えたのか、まさかこんなことになるとは、早川徳次さんも想像できなかっただろう。
 中学生になって買った万年筆というのは、修学旅行で京都の旅館に泊まったときだった。あれは西陣辺りの旅館だったような気がするが、夕食が終わった頃を見計らって、そういうこども相手に商売にやって来るおじさんがいた。荷台にたくさんの引き出しケースを積んだ自転車を旅館の前の道路に止めて、ケースを引くとそこにはさまざまな色のピカピカの万年筆が、ズラリと何段も並んでいた。
 値段がいくらだったかは覚えていないが、中学生が修学旅行にもってくるお小遣いで充分買える金額だったのだろう。うれしくなって緑色のを喜んで買ってしまった。たまにもれてくるインキを拭き取りながら使っていた。
 現在では、手書きはもっぱら150円のボールペンであるが、そもそも自筆で文字を書くということが、極端に少なくなってしまった。その理由ははっきりしている。そもそも下手な字を書かなくてもいい、それが動機と狙いの一つでもあったのだが、コンピュータを使うようになったからだ。
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 もちろん、万年筆ももっている。その一本は、商売柄ちゃんとしたものも持っていないと具合悪かろうと、今から40年も前に初めてヨーロッパに行ったときに自分へのお土産に奮発した黒い「モンブラン」。もう一本の茶色いのは、20年くらい前にそれまで勤めた会社を辞めるとき、同じ職場の若い人たちから餞別にともらった大事な記念の品で、知る人ぞ知るという名品、イニシアル入りの鳥取の「万年筆博士」のものである。
 インキにカッコつけるやつはペリカンがいいとか、アテナでないととかいっていたが、でんでんむしはもっぱらパイロットインキだった。このインキ。月島にいたとき、朝潮橋のナナ文具の棚の奥に一つだけ残っていたのを見つけて、当時の値段シールのままの60円で買ってきたものだ。
 相変わらず、字はうまくなっていない。第一、日常まるで書いていないのだし、“にっペンのミコちゃん”(これもこの頃きかない)をやったわけでもないので、うまくなっているわけがないが、今更カッコつけてみてもしかたがない。字が下手でも、なんの臆することもない。
 そういえば、中学のときには、漢字の書き取りテストで居残りをさせられて、先生からおこごとをもらったことがある。この頃からもう既に充分にへそは曲がっていたので、漢字の効率的でないことに問題を感じていた。だから、これを覚えなければならないということ、それをテストすることに割り切れないものを感じていたのだ。
 外国の映画では、タイプライタをぱちぱちやって手紙も原稿も書いているのに、書き取りでは対抗できんではないか。漢字も記号なら(ほんとはそれだけではないけれど)、そのうち機械でできるようにならなければ…。そうなれば、字が下手なのも問題でなくなる…。きっと…。
 そんな思いをずっと引きずっていたのが、後年まだわけのわからないうちから、日本語も漢字も使えないマイコンの黎明にいち早く飛びついて、それに乗っかってずっと今日まで至る伏線になっているので、中学生といえどもバカにしたもんでない。

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dendenmushi.gif(2013/02/09 記)

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