779 安宅崎=西牟婁郡白浜町塩野(和歌山県)ここにもあったつぶれた関西電力の原発新設計画と日置と安宅
旧日置川町が白浜町の一部になったのは、2006(平成18)年のことで、これ以降白浜町の町域は、大きく広がった。しかし、日置(ひき)の地名は、白浜町のなかの旧日置川町地区の、南西側海岸の一部に残るだけでになってしまった。同じ字面の鹿児島県の薩摩半島にある日置市(ひおきし)の情報はたくさんあるのに、白浜町の日置についてはあまり語られることもなくなってしまったようである。
椿から乗った明光バスは、市江口を過ぎ志原に出ると、日置川に沿ってたちまち上流に向かって海からは離れていく。この海岸には、市江崎ともうひとつ大崎という岬もあるのだが、どうも車窓からではうまくキャッチできなかった。
バスの終点は、日置川の河口から3キロ以上も上流にある、JR紀勢本線の紀伊日置駅。ここから、JRで一駅だが山の中を迂回して次の周参見駅に着く。そして、駅前からタクシーに乗って、海岸を西に戻ると安宅崎。つまり、日置にある安宅崎へは、ぐるりと大回りして周参見から寄ってみた。
日置から海岸を周参見に向かうルートは、交通機関がないのである。後から考えてみれば、ここは駅まで行かずに日置大橋でバスを降りて、周参見まで歩いてもよかったかも…。
そういうわけで、日置川の左岸河口からさらに南にある安宅崎は、東からの眺めのみになった。
安宅崎の字名は塩野だが、岬の名は北隣の安宅の字名がついている。日置川の左岸に、室町の頃城を構えていた安宅(あたぎ)河内守は、熊野水軍を率いていたという。
富田荘の朝来帰村の南、二里二十八町にある。村居は坤(※西南※)に向かって海に浜す。安宅川の海口で海上南は礫浦(つぶてがうら)を周参見荘との堺とし、北は小名箕輪を富田荘の朝来帰村との堺とし、南北全三里半を日置浦という。村の南十七〜十八町ばかりで海上に突出してるのを安宅崎という。(KEY SPOT『紀伊続風土記』現代語訳 牟婁郡安宅荘日置浦)
この後に、「その南一里ばかりに海上に突出してるのを市江崎という。」とあるのだが、これは完全に“北一里”(正確には北西)の間違いであろう。
日置川と安宅崎のあるその河口の港は、紀州の山から切り出した木材や薪炭などの運搬ルートと集積・積出し地であったようだ。
海賊や材木の次に日置を賑わしたのは、“原発”だった。
関西電力が、原発建設用地を日置川町内に取得したのは、1976(昭和51)年のことで、これ以降町は補助金で財政を立て直そうとする原発推進派と、その危険性を重視する原発反対派に二分されて対立し、大騒ぎになったという。
結果的には、その年に行なわれた町長選挙では、反対派が当選する。ところが、その町長が後に推進派に寝返ってしまい、1988(昭和63)年の町長選挙では、再び反対派が当選し、町は原発誘致の長期計画を修正し、その後の町長にもそれが受け継がれてきた。このため、関電も日置原発をあきらめ、経済産業省は日置川町の電源開発促進重要地点指定を解除した。そんなことはまったく記憶にもないし、全国的に知られていないはずだが、およそそんな経緯があったらしい。
関電が目をつけた日置川町の原発立地とは、どこだったのだろう。
『紀伊続風土記』のいう「南北全三里半」の日置浦のどこかには違いないのだが、そう思って改めて地図を見れば、日置川の北西の志原付近か、安宅崎の周辺くらいしか適地らしい場所はない。
住民の強い意思表示がなかったら、この安宅崎は原発の岬になっていたのかもしれない。
関西電力の原子力発電所は和歌山県にはないが、三か所11基あり、その全部が福井県の狭い範囲に固まっている。現在は、そのすべてが停まっているわけだ。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度32分59.60秒 135度26分49.45秒
近畿地方(2011/10/05 訪問)
この記事へのコメント
まだこんなアホなことやっている奴らがいます。
http://www.agara.co.jp/modules/colum/article.php?storyid=228428
紀伊民報の記事、ほんとにそういう勢力は自分たちの利益にかかわるだけに、必死なんでしょうね。そういう末端が、原発マフィアを支えているんでようね。
それにしても、原発にしろ基地にしろ、強権をもって民意を無視して“粛々と”ゴリ押しをする力に、地元や庶民が抵抗するのはとってもしんどいことですよね。
しかも労多くしてえるものはない…。