671 英虞崎=熊野市甫母町(三重県)「あご」と「むろ」を仕切る一方は岩の塊に溶け込んで対話できる岬
岩の圧倒的な存在感が、見るものにぐいぐいと迫ってくる。そんな印象が強く残って、その比類なき景観は脳裏に焼き付けられる。
英虞(あご)崎の広くて大きい花崗岩の岩場は、一枚岩というわけではなく、何層にも割れ目と切れ目が走る、でこぼこの傾斜である。よくある“千畳敷”という呼名が、ここにも付けられていると、どこかで見たような気がするが、そんな陳腐な、どこにでもありがちな名前など付けるには及ばない。第一、千畳敷という名は、とっくりもひっくりかえってしまいそうなこの傾斜が多い岩場ではふさわしくなかろう。
岩の流れ落ちる先端には、そこだけなにかが落ちてくるのを受け止めるように、柱状節理の岩塊が飛び出している。まるで竜の頭のようで特徴的なフック状の形は、遠くからでも目立っていた。
岩場の上は、なるべく歩きやすいように場所を選びながら進んでいくような慎重さも求められるが、とくに柵なども設けられていないので、ここで転がって海に落ちたという人はいないのだろう。
いや、こんなところに柵などつくってしまっては、景色はだいなしである。
楯ヶ崎のすぐそばにあるため、その名に魅かれてここへきた人も、英虞崎の名など意識しないまま帰ってしまうのだろう。あるいは、すでに楯ヶ崎と一体化してしまっているのかもしれない。楯ヶ崎もすばらしいが、英虞崎もそれに負けない。前者が少し遠くから離れて眺める景観であるのに対し、後者はその岩の上に座り込んで、岩とゆっくり対話できそうな気もする、そんなよさがある。
岩場の上の端には、白い灯台が立っている。岩との対話に気をとられていて、灯台まで上ってみることを、すっかり忘れていた。そのため、この灯台の名前も確認できなかったのは申し訳ないことだった。
普通、地図を見れば、灯台の名前もわかる場合も多いのだが、ここの灯台名は、国土地理院の地図でも、灯台マークのみで名が記されていない。Mapion、Yahoo!地図はじめその他大勢のネット地図では、この灯台は完全にその存在さえも無視されしまっている。
灯台の西向う、二木島湾の湾口を仕切る水道を挟んで対岸にあるのは、牟婁(むろ)崎で、その南に連なって延びる半島の先に浮かんでいるのは笹野島という。
よく考えてみると、この岩の岬の名が、なぜ「英虞崎」なのか、不思議である。“英虞”といえば“英虞湾”だろうが、これはここよりはずっと北東に離れた志摩半島南部にある。
伊勢と熊野の境界は、現在の尾鷲市と熊野市の境界線にあたると、669 神須ノ鼻の項で述べたのだが、どうやら古代ではこれが違っていたらしい。古代には、伊勢の一部か南西部を“英虞”と呼び習わしていたようだ。
また、662 瀬元鼻「紀伊」も「熊野古道」も半分は三重県だったのだと述べていたのだが、牟婁郡は三重県にも和歌山県に今も残る名である。もともとは紀伊の国の大半を占めるほどの大きな郡だったのが、明治に四分割され、北牟婁郡と南牟婁郡は三重県に、西牟婁郡と東牟婁郡は和歌山県に編入される。市制を敷く町が増えて、現在ではわかりにくくなっているが、熊野は“牟婁”であり、英虞と牟婁の境界が、この二木島湾で仕切られていたらしい。
そのため、湾口を挟んで向き合う二つの岬の名が、それぞれ「英虞崎」と「牟婁崎」になるのだ。
こういうれっきとした意味をもつ名前を、まったく無視しているネット地図は、信用に値しない。それもこれも、住宅地図欲しさにZENRINのソースに切り替えたところが多いためだろう。住宅地図は用途によっては必要だろうし、仮設住宅まで収録するというのも意味があるかもしれない。だが、そのために地図本来のあるべき姿、とくに市街地以外では地図が最低限度維持すべき基本的要件までをも棄損しているように見えることに、でんでんむしは異議を申し立てているわけである。
由緒ある岬や灯台は無視しているネット地図でも、神社の存在は無視できないらしい。二木島湾の東側、甫母町には阿古師神社、西側の二木島町牟婁崎のそばには室古神社と、ふたつの神社が湾口を挟んで向き合っている。
英虞崎からの帰り道は、途中でいったんこの阿古師神社のある海岸まで降りて行かなければならない。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度55分54.89秒 136度12分30.82秒
東海地方(2011/04/14 訪問)
この記事へのコメント
地名というのはそれぞれ謂われがあるものなのですね。
地名を大切にしなければ。
東京など、住居表示の変更で見るも無惨な有様です。