505 崎山=浜松市北区細江町気賀(静岡県)「崎」が先でもやっぱりこれも岬
浜名湖の西岸を走る天竜浜名湖線にも、何度も乗ったことがある。奥浜名湖とも称され、浜名湖にくっついている猪鼻湖・三ケ日周辺や、その東の寸座には泊
まったこともある。
ここらにも、名前がついていてもいっこうにおかしくない立派な出っ張りはいくつもある。「津々崎」とか「大崎」とか、地名に吸収されてしまったところも ある。
とにかく、数少ない浜名湖の岬で、しかもその北岸で唯一その名を地図上に留めているのが、「崎山」である。「岬」も「鼻」もないが、「崎」だけはあり、 しかもそれが前についている。これはめずらしいが、れっきとした岬の名前である。

寸座の南側に飛び出し、対岸の黒岩崎と対になっている。そしてこの2つの岬の上を結んで、東名高速道路の浜名湖橋が架かっている。ここでも、橋を架ける ときには、最短距離のコースを優先し、そのために岬の上を通過するという、よくあるパターンそのままになっている。寸座ではビラに泊り、桟橋から船にも 乗った。そのときには既に東名も開通していたから、橋も崎山も見ていたはずなのだが、さっぱり記憶にないし、写真も見つからない。
その頃は、まだこういうところまで岬として意識してなかったらしい。
ぐるっと
西岸を半周して、湖の最深部にあたる気賀駅で電車を降りた。
あらかじめ調べてきたことは、この駅でレンタサイクルがあるということだけである。
無人駅の前にはズラリと自転車が並んでいたが、誰も人がいない。駅の建物で唯一営業している食堂で聞くと、そこが窓口をやっていた。
浜名湖に
は、360度ではないようだが、いちおう自転車専用道がめぐっている。澪つくし橋を渡り、細江大橋を越えて伊目に出ると、強い風にあおられて波打つ湖面の
かなたに、崎山をまたぐ東名が見えてくる。

そこか
ら、ひたすら湖岸の自転車道を南下するが、南風がまともに吹き付けてきて、なかなか自転車が進まない。
こういう場合、往路が向かい風なら帰路は追い風になるというのは理屈だが、これまでの経験では、なぜか往復とも向かい風ということも少なくないのも不思 議だ。
やっと浜名湖橋のそば、一部ではつとに有名な会社である浜松ホトニクスがあるところまで来てみると、今度は道がなくなってしまった。地図にも道は途中で 消えたようになっていたので、予想はしていたが、なんの標識も案内図もないので、四苦八苦してなんとかかんとか自転車を大草山の上まで押し上げた。
山の上にある国民宿舎のところから眺めると、崎山は正面に俯瞰することができる。
地図で
は、この橋から北側一帯の湖には「引佐(いなさ)細江」という名も併記してある。ここらはかつては“浜北市”という独立した市であったが、今では浜松市の
一部になっている。そんな名前に、ひっかかるものを感じていた。三ケ日もそうだが、ここら一帯には、旧石器時代の人類の営みが、あれこれ痕跡として残って
いるのだ。
当時の北浜名湖周辺は、人が漁労採取の生活をするのに、好適の地であったのだろう。多少風のきつい日をがまんすれば…。
確か、日本で最古の人骨も、この付近に数ある遺跡のひとつから出ていたはずだ。(今、これを書いている数日前には、八重山諸島の石垣島の洞窟からは、浜 北人よりさらに数千年も古い2万年前の人骨が発見された、というニュースが伝えられた。)
帰りの道では、こんなものを発見。マンホールのフタには中央には銅鐸と澪標、縁には銅鏡の三角縁がデザインされている。これも浜北市時代ならではの痕跡 であろう。
東海道は、浜名湖をどうして渡っていたのだろう。おそらくは橋はなく、渡し船だったのではないだろうか。新居の関所には行かなかったのでよくわからない が、もうひとつこの湖の北を迂回するルートもあった。あまり利用度が高いようには思えないが、姫街道と呼ばれた道が通る気賀には、復元された関所もあっ た。

東海地方(2009/12/05再訪)(2010/02/09記 2010/03/21Vol.2から移転統合)
▼国土地理院 「地理院地図」
34度46分51.26秒 137度36分48.22秒
東海地方(2009/12/05 再訪)

ここらにも、名前がついていてもいっこうにおかしくない立派な出っ張りはいくつもある。「津々崎」とか「大崎」とか、地名に吸収されてしまったところも ある。
とにかく、数少ない浜名湖の岬で、しかもその北岸で唯一その名を地図上に留めているのが、「崎山」である。「岬」も「鼻」もないが、「崎」だけはあり、 しかもそれが前についている。これはめずらしいが、れっきとした岬の名前である。

寸座の南側に飛び出し、対岸の黒岩崎と対になっている。そしてこの2つの岬の上を結んで、東名高速道路の浜名湖橋が架かっている。ここでも、橋を架ける ときには、最短距離のコースを優先し、そのために岬の上を通過するという、よくあるパターンそのままになっている。寸座ではビラに泊り、桟橋から船にも 乗った。そのときには既に東名も開通していたから、橋も崎山も見ていたはずなのだが、さっぱり記憶にないし、写真も見つからない。
その頃は、まだこういうところまで岬として意識してなかったらしい。

あらかじめ調べてきたことは、この駅でレンタサイクルがあるということだけである。
無人駅の前にはズラリと自転車が並んでいたが、誰も人がいない。駅の建物で唯一営業している食堂で聞くと、そこが窓口をやっていた。



こういう場合、往路が向かい風なら帰路は追い風になるというのは理屈だが、これまでの経験では、なぜか往復とも向かい風ということも少なくないのも不思 議だ。
やっと浜名湖橋のそば、一部ではつとに有名な会社である浜松ホトニクスがあるところまで来てみると、今度は道がなくなってしまった。地図にも道は途中で 消えたようになっていたので、予想はしていたが、なんの標識も案内図もないので、四苦八苦してなんとかかんとか自転車を大草山の上まで押し上げた。
山の上にある国民宿舎のところから眺めると、崎山は正面に俯瞰することができる。

当時の北浜名湖周辺は、人が漁労採取の生活をするのに、好適の地であったのだろう。多少風のきつい日をがまんすれば…。
確か、日本で最古の人骨も、この付近に数ある遺跡のひとつから出ていたはずだ。(今、これを書いている数日前には、八重山諸島の石垣島の洞窟からは、浜 北人よりさらに数千年も古い2万年前の人骨が発見された、というニュースが伝えられた。)
帰りの道では、こんなものを発見。マンホールのフタには中央には銅鐸と澪標、縁には銅鏡の三角縁がデザインされている。これも浜北市時代ならではの痕跡 であろう。

東海道は、浜名湖をどうして渡っていたのだろう。おそらくは橋はなく、渡し船だったのではないだろうか。新居の関所には行かなかったのでよくわからない が、もうひとつこの湖の北を迂回するルートもあった。あまり利用度が高いようには思えないが、姫街道と呼ばれた道が通る気賀には、復元された関所もあっ た。



34度46分51.26秒 137度36分48.22秒



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