番外:なぜ「でんでんむし」なのか?
『でんでんむしの岬めぐり』というブログタイトルの「でんでんむし」は、単なる筆者のペンネーム(ハンドルネーム)であります。どうしてこんなベタな名前をつけたのか、今日の番外はそれについて…。
これもいずれ徐々にとりあげるつもりだが、So-netブログにはわからないことが多い。「記事管理」というリストでは各項目の「閲覧数」なるものが表示されることになっているが、これが7月の中旬以降、明らかな大幅ペースダウンを示している。
自他共に認める“ひきこもりブログ”だから、もともとそんなに多くはないし、その数を増やしたいと思って努力しているわけでもないので、単なる好奇心からなのだが、従来のペースでは新規投稿後一日経過すればこの数字は60くらいにはなり、数日経過後には三桁に達するというのが、通常パターンであったが、それが中旬以降の新規アップ項目では、12日以上経っても例外なく二桁のままである。
このひきこもりブログも、一昨日の土曜日にアップしたもので450項を数えることになったが、この項目などは、丸二日経っても30件にも届かない。これは近来にない低レベルである。(もちろん、これはページごとの「閲覧数」というデータに限ってのこと、アクセス全体とは直接には関係がない(らしい)。)
考えられる環境変化は、学校が夏休みになった、政局が動きだしたことぐらいだが、これまで、この『でんでんむしの岬めぐり』ブログを見る人は政治家が主ということはあり得ないので、学生さんが学校で見るケースがそんなに多かったということなのだろうか。
もともとこのブログ自体が、人様に見せることよりももっぱら自分自身の記録と材料整理のため、という大義名分を掲げているのではあるが、多少は読者への親切も意識はしている。誰も他人のことにはあまり興味がないこととは思うが、すっかり夏休みモードの世間に合わせて、夏枯れ対応で少し番外編でのデータの整理・補足・分析に加えて、暇ネタなどを試みておきたいと思う。
その手始めにまずは「でんでんむし」の由来から。
ハンドルネームに「でんでんむし」に使っていたのはかなり前からで、ブログもこれまでいくつかやったりやめたりしてきた。その最初の頃は、登録のニックネームも「でんでんむし」「dendenmushi」ですんなり使えたのだが、そのうち「すでに登録されている」と使えなくなったので、いろいろ変形したり短縮したりして今日に至っている。
こういう名前に、実際にある動植物などの名称をそのまま使うのは、それ自体命名に工夫はないが、その名を使う個人個人のなんらかの思い入れがあるはずである。
でんでんむしの場合、それはなにか?
それは、自分自身が、周りの田畑や庭先や裏山や小川の自然の中で駆け回り、遊びまくったこどもの頃、ひとりで遊ぶとき、こどもなりの考えにふけるとき、大地と草に顔をくっつけるようにして過ごしたものだ。
そのとき、目の前にいたもっとも身近な生き物が、ミミズ、ダンゴムシ、ナメクジ、クモ、バッタ、オケラ、アリ、ヘコキムシなどであり、テントウムシ、カメムシ、チョウ、トンボ、カナブンといった昆虫類であった。水中には、ボウフラ、ゲンゴロウ、ミズスマシ、アメンボウ、ヤゴ、ドジョウ、メダカ、そしてカエル…。
こういった、いつもそばいた小さな生き物は、またとない友達でもあった。そのなかでも、“以上総代”として、デンデンムシをあげている。(写真を撮ろうにも、東京都中央区でそれを探すのはムリだった。しかたがないので和歌山の岬めぐりのときに、たまたま遭遇したヤツのを流用してみたが、やはり青いアジサイか何かの葉っぱにのっかっているほうがいいよねえ…。とりあえず、これで間に合わせ。)

それも、結構興味をそそる生き物だったし、絵になるし、誰もがイメージしやすいから、キャラとしても最適である。
第一、家を背負っている。都合の悪いときは、何時間でも何日でもその中にこもって出てこない。出入り口に膜を張って、死んでいるのか生きているのかもわからないヤツまでいる。
動き方もユニークで、見ていると飽きない。足はないくせにどこでそう推進力が働くのか、まるで流れるように進む。頭をふりふり、ツノや目玉を伸ばしたり縮めたりしながら進む。その先端をちょんと突いてやると、なんだかとまどったようにひっこめて、ゆっくりと向きを変えようとする。
その歩みのスピードは、きわめてのろい。
しかし、しばらくほかのことに気をとられて眼を離していると、いつのまにかどこかへ行ってしまっている。まるで、ワープ能力でも備えているようだ。
でも、ワープしたのではないという証拠には、よく見ると銀色の道を残している。遅くとも、着実に進むべき道を知っているかのようだ。
殻をつまんで持ち上げると、くねくねとからだを動かすが、こうなるといかにも無力で、情けないことになる。
さらに、「なぜデンデンムシなのか?」と聞かれたときには、ちゃんともっともらしい、使える逸話を、新美南吉という先人が残してくれている。おまけに美智子皇后のお墨付きまであるので、それを引き合いに出せば、なんとか格好もついて、たいていの人が恐れ入って納得してくれるというものだ。
別名「かたつむり」といいます。学のあるところを見せたければ「蝸牛」という字を使うこともできるし、ついでに柳田国男の『蝸牛考』のどこかを引いてきたり、一茶の句(富士山へ登るというヤツ)を引用することもできる。かわいく「まいまい」といってもいい。
かように、なかなかのクセモノだが、この古い友達が自分のなかで一瞬の輝きを放ち、天啓のようにひらめいたことがあった。それは、中学の国語の教科書の冒頭に、上田敏の訳詞による有名なブラウニングの詩をみたときだった。「すべて世は事もなし。」の象徴が、でんでんむしのようにも思え、こころに響いた。
さらに、あの殻の螺旋。これがすばらしい。ラセンという構造も魅力がある。ぐるぐるとおなじところを回っているようで、実はゆるゆると高みをめざしている。

というわけで、一時期螺旋の貝殻など集めたりしていたが、上の写真の化石は神田神保町の三省堂書店で、だいぶ昔に買っていたものである。モロッコから出土したというゴニアタイトは、デボン紀(3億5000年前)のものであるという。螺旋のおもしろさだけなら、アンモナイトでもよかったかもしれないが、なじみやすさという点ではでんでんむしに敵うものはいない。
まあ、そんなこんな、さまざまなこじつけで、だからでんでんむしなのであります。
(2009/07/27)
これもいずれ徐々にとりあげるつもりだが、So-netブログにはわからないことが多い。「記事管理」というリストでは各項目の「閲覧数」なるものが表示されることになっているが、これが7月の中旬以降、明らかな大幅ペースダウンを示している。
自他共に認める“ひきこもりブログ”だから、もともとそんなに多くはないし、その数を増やしたいと思って努力しているわけでもないので、単なる好奇心からなのだが、従来のペースでは新規投稿後一日経過すればこの数字は60くらいにはなり、数日経過後には三桁に達するというのが、通常パターンであったが、それが中旬以降の新規アップ項目では、12日以上経っても例外なく二桁のままである。
このひきこもりブログも、一昨日の土曜日にアップしたもので450項を数えることになったが、この項目などは、丸二日経っても30件にも届かない。これは近来にない低レベルである。(もちろん、これはページごとの「閲覧数」というデータに限ってのこと、アクセス全体とは直接には関係がない(らしい)。)
考えられる環境変化は、学校が夏休みになった、政局が動きだしたことぐらいだが、これまで、この『でんでんむしの岬めぐり』ブログを見る人は政治家が主ということはあり得ないので、学生さんが学校で見るケースがそんなに多かったということなのだろうか。
もともとこのブログ自体が、人様に見せることよりももっぱら自分自身の記録と材料整理のため、という大義名分を掲げているのではあるが、多少は読者への親切も意識はしている。誰も他人のことにはあまり興味がないこととは思うが、すっかり夏休みモードの世間に合わせて、夏枯れ対応で少し番外編でのデータの整理・補足・分析に加えて、暇ネタなどを試みておきたいと思う。
その手始めにまずは「でんでんむし」の由来から。
ハンドルネームに「でんでんむし」に使っていたのはかなり前からで、ブログもこれまでいくつかやったりやめたりしてきた。その最初の頃は、登録のニックネームも「でんでんむし」「dendenmushi」ですんなり使えたのだが、そのうち「すでに登録されている」と使えなくなったので、いろいろ変形したり短縮したりして今日に至っている。
こういう名前に、実際にある動植物などの名称をそのまま使うのは、それ自体命名に工夫はないが、その名を使う個人個人のなんらかの思い入れがあるはずである。
でんでんむしの場合、それはなにか?
それは、自分自身が、周りの田畑や庭先や裏山や小川の自然の中で駆け回り、遊びまくったこどもの頃、ひとりで遊ぶとき、こどもなりの考えにふけるとき、大地と草に顔をくっつけるようにして過ごしたものだ。
そのとき、目の前にいたもっとも身近な生き物が、ミミズ、ダンゴムシ、ナメクジ、クモ、バッタ、オケラ、アリ、ヘコキムシなどであり、テントウムシ、カメムシ、チョウ、トンボ、カナブンといった昆虫類であった。水中には、ボウフラ、ゲンゴロウ、ミズスマシ、アメンボウ、ヤゴ、ドジョウ、メダカ、そしてカエル…。
こういった、いつもそばいた小さな生き物は、またとない友達でもあった。そのなかでも、“以上総代”として、デンデンムシをあげている。(写真を撮ろうにも、東京都中央区でそれを探すのはムリだった。しかたがないので和歌山の岬めぐりのときに、たまたま遭遇したヤツのを流用してみたが、やはり青いアジサイか何かの葉っぱにのっかっているほうがいいよねえ…。とりあえず、これで間に合わせ。)

それも、結構興味をそそる生き物だったし、絵になるし、誰もがイメージしやすいから、キャラとしても最適である。
第一、家を背負っている。都合の悪いときは、何時間でも何日でもその中にこもって出てこない。出入り口に膜を張って、死んでいるのか生きているのかもわからないヤツまでいる。
動き方もユニークで、見ていると飽きない。足はないくせにどこでそう推進力が働くのか、まるで流れるように進む。頭をふりふり、ツノや目玉を伸ばしたり縮めたりしながら進む。その先端をちょんと突いてやると、なんだかとまどったようにひっこめて、ゆっくりと向きを変えようとする。
その歩みのスピードは、きわめてのろい。
しかし、しばらくほかのことに気をとられて眼を離していると、いつのまにかどこかへ行ってしまっている。まるで、ワープ能力でも備えているようだ。
でも、ワープしたのではないという証拠には、よく見ると銀色の道を残している。遅くとも、着実に進むべき道を知っているかのようだ。
殻をつまんで持ち上げると、くねくねとからだを動かすが、こうなるといかにも無力で、情けないことになる。
さらに、「なぜデンデンムシなのか?」と聞かれたときには、ちゃんともっともらしい、使える逸話を、新美南吉という先人が残してくれている。おまけに美智子皇后のお墨付きまであるので、それを引き合いに出せば、なんとか格好もついて、たいていの人が恐れ入って納得してくれるというものだ。
別名「かたつむり」といいます。学のあるところを見せたければ「蝸牛」という字を使うこともできるし、ついでに柳田国男の『蝸牛考』のどこかを引いてきたり、一茶の句(富士山へ登るというヤツ)を引用することもできる。かわいく「まいまい」といってもいい。
かように、なかなかのクセモノだが、この古い友達が自分のなかで一瞬の輝きを放ち、天啓のようにひらめいたことがあった。それは、中学の国語の教科書の冒頭に、上田敏の訳詞による有名なブラウニングの詩をみたときだった。「すべて世は事もなし。」の象徴が、でんでんむしのようにも思え、こころに響いた。
さらに、あの殻の螺旋。これがすばらしい。ラセンという構造も魅力がある。ぐるぐるとおなじところを回っているようで、実はゆるゆると高みをめざしている。

というわけで、一時期螺旋の貝殻など集めたりしていたが、上の写真の化石は神田神保町の三省堂書店で、だいぶ昔に買っていたものである。モロッコから出土したというゴニアタイトは、デボン紀(3億5000年前)のものであるという。螺旋のおもしろさだけなら、アンモナイトでもよかったかもしれないが、なじみやすさという点ではでんでんむしに敵うものはいない。
まあ、そんなこんな、さまざまなこじつけで、だからでんでんむしなのであります。
(2009/07/27)
この記事へのコメント
今回の“蝸牛考”には考えさせられることが多々ござった。たとえば「家を背負っている」生きざま。トレーラー(キャンピング、ヨット)カー生活者やジプシー、ホームレス
から山頭火まで飛躍連想するが、問題は心のありようで「フリーな境地か、そうでもなく結構シビアなものなのか」──拙者も「家を背負った」気分ゆえ、いろいろ思案したものでござる。合掌。
たまたまラジオから、♪「ぼくらはみんな生きている…」という歌が流れてきて、あれにもミミズやオケラがでてくる。こんなことを書いた後だったので、これまでになく新鮮に聞こえました。
西のほうでは、植生が違うので、関東のようにクワガタで騒ぐこともなかったし、外来種におびやかされることもなくザリガニもまだいませんでした。
でんでんむしは、やはり家を背負っている分、縛られているというイメージもあるけど、反対に勝手気ままにどこへでも行ってしまう、という面もありますね。