299 アラメノ鼻=呉市広長浜五丁目(広島県)ただ通り過ぎただけでは岬だかなんだかわからない
岬といってもなにがあるわけでもない。護岸の堤防やテトラポットが並び、その横をただ道路が多少カーブしながら回っている。陸のほうも、道路を通すために山が削り取られ、その崖の護岸もしなければならないので、およそ趣などあったものではない。ただ、通り過ぎただけでは、岬やらなにやらもわからないだろう。


…それが、岬という名はついていても行って見ると、実は“名ばかり岬”でしたという例で、このタイプに属する岬も、相当ありそうだ。このアラメノ鼻もまさしくそうなのだが、これにもちゃんと理由がありそうだ。
もともと名前がつくくらいだから、初めからこうだったわけではなく、ちゃんとした立派な尾根が海に落ちていく姿は、あたりを圧していたに相違ない。

それが、道路が一本通るというだけで、こんなになってしまう。じゃ、オマエは道路などいらん、ないほうがいい、趣のほうが大事だというのか、と開き直られても困る。もともとそれは岬めぐりのテーマではない。
ただ、岬の歴史と出自を想像しているだけである。

アラメというのは、昆布の仲間で、荒い海の岩磯で獲れる。それが、ここに名前としてついている。下猫崎の高い防波堤といい、ここのテトラポットの大盤振る舞いといい、内海なのにここらは相当荒れる磯と見える。
長浜のバス停まで歩いて、次のバスを待つあいだ、あたりをうろうろしていると懐かしい「バタンコ」発見。「BATANKO」と書いてあるのがいいね。といっても、これは東洋工業のマツダではなくて、ミゼットかなにか後期の車であろう。造船所前というバス停から向うにも岬が見えるが、これには名前がついていない。その向こう側は米軍の弾薬庫で、それを隠す役目をしている。
その向うに横たわるのは休山であろう。この山が呉市と広を隔てており、この尾根の南端(左側)は音戸の瀬戸になる。


呉市はなかなかエライ。呉市営バスというのが市内(だけでなく広島へ行く路線もある)をくまなくといっていいほど、縦横に走り回っているのだ。

末尾の国土地理院の地図に「蜻画」という表示が、錨マークの上に目立っている。これはいったいなんだろう。
よくみると、広だけでなく休山を越えた呉本港にも、同じように「蜻画」と表示してあるのだ。ネットで調べてみると呉市観光協会のページがヒットするが、どこにその記述があるのかさっぱりわからないので、電話して聞いてみた。無駄骨だった。国土地理院に聞けばという。それもそうなのだが…。そういえば「呉港」と表示すべき場所にあるようなので、地図制作上のなにかなのかもしれない。いちおう表示の疑問としてメールしておいたが、返事はまだない。(8/19 電子国土事務局から返事をもらった。「データ変換の際におきたエラー」による単なる表示間違いで、「文字データを「呉港」に修正いたしました。」とのことで、現在は修正してある。)
いつだったか、何度目かの佐原の伊能忠敬記念館で、展示品のなかにちょうどこの広や下蒲刈島周辺を測量する一行の様子を描いた絵があって、ちょっと興奮した。
伊能測量隊が山陽道を通ったのは、1809(文化6)年の第7次測量のときであろう。その頃は、広も今よりもっと広くなく、黒瀬川の河口はもっと奥まっていたが、測量隊の来訪は近隣の耳目を集めたに相違ない。
文化文政の時代、わがでんでんむし家の先祖たちは、どういうわけあってか当時は誰がどう見ても寒村に過ぎなかったこの広というところにいたのだった。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度12分22.88秒 132度37分39.12秒

中国地方(2008/07/15 訪問)



…それが、岬という名はついていても行って見ると、実は“名ばかり岬”でしたという例で、このタイプに属する岬も、相当ありそうだ。このアラメノ鼻もまさしくそうなのだが、これにもちゃんと理由がありそうだ。
もともと名前がつくくらいだから、初めからこうだったわけではなく、ちゃんとした立派な尾根が海に落ちていく姿は、あたりを圧していたに相違ない。

それが、道路が一本通るというだけで、こんなになってしまう。じゃ、オマエは道路などいらん、ないほうがいい、趣のほうが大事だというのか、と開き直られても困る。もともとそれは岬めぐりのテーマではない。
ただ、岬の歴史と出自を想像しているだけである。

アラメというのは、昆布の仲間で、荒い海の岩磯で獲れる。それが、ここに名前としてついている。下猫崎の高い防波堤といい、ここのテトラポットの大盤振る舞いといい、内海なのにここらは相当荒れる磯と見える。
長浜のバス停まで歩いて、次のバスを待つあいだ、あたりをうろうろしていると懐かしい「バタンコ」発見。「BATANKO」と書いてあるのがいいね。といっても、これは東洋工業のマツダではなくて、ミゼットかなにか後期の車であろう。造船所前というバス停から向うにも岬が見えるが、これには名前がついていない。その向こう側は米軍の弾薬庫で、それを隠す役目をしている。
その向うに横たわるのは休山であろう。この山が呉市と広を隔てており、この尾根の南端(左側)は音戸の瀬戸になる。


呉市はなかなかエライ。呉市営バスというのが市内(だけでなく広島へ行く路線もある)をくまなくといっていいほど、縦横に走り回っているのだ。

末尾の国土地理院の地図に「蜻画」という表示が、錨マークの上に目立っている。これはいったいなんだろう。
よくみると、広だけでなく休山を越えた呉本港にも、同じように「蜻画」と表示してあるのだ。ネットで調べてみると呉市観光協会のページがヒットするが、どこにその記述があるのかさっぱりわからないので、電話して聞いてみた。無駄骨だった。国土地理院に聞けばという。それもそうなのだが…。そういえば「呉港」と表示すべき場所にあるようなので、地図制作上のなにかなのかもしれない。いちおう表示の疑問としてメールしておいたが、返事はまだない。(8/19 電子国土事務局から返事をもらった。「データ変換の際におきたエラー」による単なる表示間違いで、「文字データを「呉港」に修正いたしました。」とのことで、現在は修正してある。)
いつだったか、何度目かの佐原の伊能忠敬記念館で、展示品のなかにちょうどこの広や下蒲刈島周辺を測量する一行の様子を描いた絵があって、ちょっと興奮した。
伊能測量隊が山陽道を通ったのは、1809(文化6)年の第7次測量のときであろう。その頃は、広も今よりもっと広くなく、黒瀬川の河口はもっと奥まっていたが、測量隊の来訪は近隣の耳目を集めたに相違ない。
文化文政の時代、わがでんでんむし家の先祖たちは、どういうわけあってか当時は誰がどう見ても寒村に過ぎなかったこの広というところにいたのだった。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度12分22.88秒 132度37分39.12秒




この記事へのコメント
これはミゼットですな。関東ではバタンコといわずオート三輪(くろがねやダイハツの)と呼んでいました。
地図上の“蜻画”を睨んでしばし考えましたが不明。なんでせうね。
でも、傾向分析はまた近いうちに挑戦して見ようと思いますので…。
広なんてね、関東の人は知らないでしょうが、広島では「広島=広」という電車が呉線の通勤電車らしいです。
大昔にね、なんだか熱い中を広駅からてくてく歩いた記憶があるのですが。