
於呂口の鼻という名が残る岬は、道路が海沿いにゆっくりとカーブしているところである。とくに削ったとか埋立てたという形跡はないものの、石とコンクリートで覆われた崖と、浜はそのすべてがテトラポットで埋め尽くされている。岬の周囲をぐるりと囲む新たな道路工事をして、そうなったのだろう。そうなる前の姿を想像してみると、ここもまた東の於呂口の集落に一本と西の松合寄りに二本の川と三本の尾根が海に向かって流れ込んだ地形で、その端を区切る岬が、この於呂口の鼻だった。
そして、それは宇土半島の南側、三角から松橋(まつばせ)までの間に、いいかげんな数え方でおよそ14本も数えてみることができる。
こう同じような地形が連続していて、海に向かって突き出した大小の出っ張りが並んでいれば、それぞれに名を付けて識別しないことには、相当不便を来したことだろう。そう考えれば、ここにわざわざ名前がついている理由も、納得できる。

この岬の向こうにも同じような出っ張りがあるのだが、ここにだけは名前がついていない。そこは松合の町の東の境界で、町の拡張と港の工事のため、岬を削って埋立てた形跡がある。おそらくは、その工事もずいぶん昔のことで、今の地図に名がないのも自然なのだろう。
禿の岬から海沿いに東に歩いて行くと、道はまっすぐ海岸を走るバイパスと、山寄りに迂回する細い道に分岐する。その分岐点に「松合 土蔵白壁群 ←入口」という趣のある標識搭が立っている。こりゃ、迷うことなく←に従って行くべきだ。
江戸から明治期にかけて、漁業と海運、それに酒や醤油などの醸造業が盛んで、春の川という名前の小さな川が流れる町の中心部は「松合千軒」と呼ばれた時期もあるという古い町並みが残っている。防火対策から生まれた白壁土蔵は、町のあちこちに残っている。ただ、自然に残ったというのではなく、意図して努力しつつ残されているようで、最近各地で盛んに行なわれるようになった、個別の歴史的建造物のみならず、生活領域全体を風致地区として残そうという例のひとつなのだろう。
「松合」という名も、もともとは「待合」であったという説もあるらしいが、それはここが古くから風待ちの港として重要な拠点になっていたということからすると、あるいはそうかもしれぬ。そしてさらに、ここが風待ちの港として八代海のポイントだったとすれば、宇土半島の南海岸では、東寄りに名のある岬が集中しているのも、なんとなくうなづける。

郷土資料館の前にバス停があったので、時刻表を見ると、松橋へ行くバスは、さっき出たとこだった。やれ困った。タクシーはないのかと、そこらにいた人に聞いてみると、タクシーはないが、もうすぐバスが来るという。あれ、バスの時刻はもう過ぎているようですけど…などといっているうちにやってきたバスは、ミニバスというやつで、どうやら町と産交バスが協定して運行しているものらしい。遅れていた路線バスなのか、それともそれとは別のコミュニティバスなのか、よくわからないが、なんであっても乗せてくれればそれでいい。
於呂口の鼻は、このバスに乗って通り過ぎた。
▼国土地理院 「地理院地図」
32度37分56.05秒 130度37分15.23秒

ラベル:熊本県


前回の「岬のない干拓地」もまた考えさせられます。いわれてみると、地理にうとい拙者でも、八郎潟、晴海、関西空港などいくつか思い起こします。徳川家康の昔から、人間はずいぶんと埋め立て工事をやってきたもんですねえ。
広島の中学では、修学旅行は京都・奈良でしたが、その印象は強く残っています。今、住んでいる東京の月島も、修学旅行のコースになっているらしく、この頃はシーズンで、毎日観光バスがずらりと並んで、中学生がゾロゾロ歩いています。
大きな台風で風景が一変しました。
二枚目の写真の海の中の鳥居へ一番近いところがが今はない私の家でした。
台風の影響があったのですね。なるほど。それで海岸のものものしさが理解できました。
そうですか。「今はない私の家」…。
でんでんむしも同じなので、つい感傷的になってしまいます。