198 鎌ヶ崎=静岡市清水区三保(静岡県)50年ぶりにやってきましたよ三保の松原
でんでんむしが広島の高校生だった頃、修学旅行は関東か九州か二手に分かれて行っていた。今のように海外へ行くなんて、誰も夢にさえ見ない。もちろん、東京というものを一度見ておきたかったから、迷わず関東のほうに手を上げたが、このときの先生がちょっと変わっていて、日光に行く代わりに静岡や鎌倉・横浜をコースに入れたのである。
そのおかげで、初めて富士山をたっぷり見ることができたし、三保の松原・日本平とワサビ田・久能山と石垣イチゴ、そして登呂遺跡と駿府城、おまけにどういうわけか次郎長の奥さんの墓まで見て回ったのだから、静岡はかなり…。御前崎までは無理だったが、この頃はまだ岬に目覚めていなかった。



ここには、鎌ヶ崎という名が北側に残っている。松林の中に遊歩道があって、その松林の間に、ちょっとだけ砂洲の出っ張りが見える。昔はもう少しは出っ張りが目立っていた時期があり、そのために「崎」という名が残った、とも考えられそうである。

三保の松原は、実はそれ以来なので、「再訪」というのも変だが、まあ二度目には違いない。そのときの記憶があまりはっきりしていないが、砂浜が雄大で“白砂青松”とはこいうことだったがという印象はあった。今見ると、砂はそんなに白いわけでもないし、砂というより砂利のようである。羽衣の松は、こんなに小さかったのかと思うが、前に見た松と同じかどうかわからない。どのみち何代目かなのだろうが、天女の衣を枝に掛けるには、そう大木でも困るわけだ。
考えてみれば、“伝説”というものは、おかしなものだ。

いずれにしても、ここの松原は見事である。海からはかなり高くなったところに、大きな土手をつくり、そこにこんな松の林をつくった自然というものに、驚くばかりだ。
それはまた、雄大な駿河湾の寄せる波と、前に横たわる伊豆の山々と、そして遠くそびえる富士山に、これほどマッチした風景を造出することになるわけで…。


多くの人々が、昔からこの景色に魅かれてきたことは、当然といえば当然であろう。その日一日の疲れをを癒し湯に浸かるときにも、そのさまを眺めていたいと、銭湯の壁に描き出すことになったのにも、大いに納得してしまう。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度59分51.13秒 138度31分35.72秒

東海地方(2007/12/04 再訪)
そのおかげで、初めて富士山をたっぷり見ることができたし、三保の松原・日本平とワサビ田・久能山と石垣イチゴ、そして登呂遺跡と駿府城、おまけにどういうわけか次郎長の奥さんの墓まで見て回ったのだから、静岡はかなり…。御前崎までは無理だったが、この頃はまだ岬に目覚めていなかった。



ここには、鎌ヶ崎という名が北側に残っている。松林の中に遊歩道があって、その松林の間に、ちょっとだけ砂洲の出っ張りが見える。昔はもう少しは出っ張りが目立っていた時期があり、そのために「崎」という名が残った、とも考えられそうである。

三保の松原は、実はそれ以来なので、「再訪」というのも変だが、まあ二度目には違いない。そのときの記憶があまりはっきりしていないが、砂浜が雄大で“白砂青松”とはこいうことだったがという印象はあった。今見ると、砂はそんなに白いわけでもないし、砂というより砂利のようである。羽衣の松は、こんなに小さかったのかと思うが、前に見た松と同じかどうかわからない。どのみち何代目かなのだろうが、天女の衣を枝に掛けるには、そう大木でも困るわけだ。
考えてみれば、“伝説”というものは、おかしなものだ。

いずれにしても、ここの松原は見事である。海からはかなり高くなったところに、大きな土手をつくり、そこにこんな松の林をつくった自然というものに、驚くばかりだ。
それはまた、雄大な駿河湾の寄せる波と、前に横たわる伊豆の山々と、そして遠くそびえる富士山に、これほどマッチした風景を造出することになるわけで…。


多くの人々が、昔からこの景色に魅かれてきたことは、当然といえば当然であろう。その日一日の疲れをを癒し湯に浸かるときにも、そのさまを眺めていたいと、銭湯の壁に描き出すことになったのにも、大いに納得してしまう。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度59分51.13秒 138度31分35.72秒


この記事へのコメント
この日は好天に恵まれましたね。富士山がいちばん美しく見えるのはこの辺りでしょうか。久しく銭湯に行っていませんが、今でもこういう絵が描いてあるんでしょうかね。
きれいですね~
今年も終わりです。岬めぐりも、年の締めくくりと年明けは、やっぱり富士山ですよ。