082 宇部岬=宇部市大字沖宇部(山口県)懐かしき町と人のこと
宇部という町には、セメントの袋だけではない馴染がある。瀬戸内海の島の船乗りと結婚した叔母一家がここに住んでいるから、昔からこれまでも何度も来ている。琴芝、松山町、そして岬…といくつかの地名にも昔から聞き覚えがある。そう、岬町という地区があり、宇部線の駅には「宇部岬」という駅までちゃんとあるのだ。
ならば、ここも押さえておかなければ…とやってきたが、実はMapionの地図でも、ここはいささかビミョーな扱いになっている。宇部岬とはっきりと明記してあるのは1/75000の地図までであって、1/21000、7/3000とそれより詳しくなるとその表記がなくなってしまうのである。普通は逆なんだけど…。
岬町は実は今では海岸から内側になっていて、港のそばは八王子町という別の町名になる。山口宇部空港の滑走路の南西端がすぐそこにある、このあたりも埋め立てでできたのだろう。昔の岬は、埋め立てられて囲まれてしまったらしい。
10代の終わりに、宇部興産のセメントタンカーに乗り組んでいた叔父の身内ということで、特別に便乗させてもらい、宇部港と東京の竹芝桟橋の間を往復したことがある。その叔父もすでに亡いが、船長はじめ乗り組みの人にも親切にしてもらって、海の男というのはいいもんだ、と思った。4500トンほどのセメントタンカーで2晩がかりで片道を行く、この得難い体験は前にもちらりと書いたが、このときに遠く沖を行く船の上から、御前崎や潮岬を遠望した経験が、でんでんむしの岬めぐりに結びついているといえる。
沖ノ山炭坑以来、工業地帯として多くの工場なども集まっているこの地域は、厚東川の両側海よりに工場が並び、人の暮らす住宅街はだいたい宇部線の線路から山側に固まっている。戦争中は空襲にもあっているが、なんといっても戦後の復興から現在まで、宇部興産でもっているようなところで、宇部港の入口をまたいで架かる橋も「興産大橋」という自前の橋である。ここに暮らす人々も多くは、その関連の仕事に関わっているといわれる。「興産」という名前からしていかにもという感じだが、化学関連の複合企業体で、中安閑一という元会長の名前は、昔からよく知っていた。岸信介の友人でもあり、“宇部モンロー主義”といわれたこともあるが、地元のためにつくした、つくそうと努力した人であるという印象がある。ついでながら、“太田ラッパ”といわれた元総評議長もここの合化労連の出である。
最初に宇部の叔母の家を訪れたのは昭和30年頃だったろうか。そのとき、工業地帯である町の通りには緑の街路樹が植えられており、その葉が粉塵をかぶって茶色くなっていたのを覚えている。だが、その頃から中安は粉塵対策を企業の責任として処理しなければならないことを自覚していたようだ。通りには、“只今の粉塵濃度”かなにかを示すような標識まで出ていたように思う。当時としては、かなり先進的な取り組みだったのだ。
市の中心部で比較的高い建物である全日空ホテルの部屋から、港のほうを眺めながら、あのときはまだ橋はなかったが、「清忠丸」が出港していったのも、この先の小串のセメント桟橋だったのだと、しばし懐かしい思いにかられる。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度55分28.96秒 131度15分51.23秒中国地方(2007/02/01 訪問)
この記事へのコメント
ほんとにそうでしたね、今考えてもみんな相当に貧しかったですね。わたしの友達にも在日の子も何人もいて、結構分けへだてなく仲良くしていました。彼らはいまどうしてるんだろう…。