番外:竹の子島=下関市彦島竹ノ子島町(山口県)おもしろきこともなき世におもしろく
地図もなにももたずに来たので、“確か彦島の先に灯台か岬かなにかあったような…”というおぼろげでわずかな記憶を根拠に、下関駅前からバスに乗る。せっかく本州の最西端の下関まで来たのだから、空振りでムダになってももいいからとにかく行ってみよう。
バスの終点は竹の子島。だが、ここはまだ彦島で、この先の橋を渡れば竹の子島になる。この二つの島はいずれも橋で本土と一体化している。これもいつもどこへ行ってもあるお馴染の風景で、港にはたくさんの船がいる。だが、漁港というだけの感じでもないのは、造船所のようなクレーンなどもあるためだろう。
カンを頼りに先端を目指して行くと、民家と畑の間に道は消えてしまう。それではと、強引にビニールハウスの間をすり抜けるようにして進み、薮をかき分けてやっと島の北端の海岸に出た。ところが、これがものすごくきたない汚れた海岸で、いろいろな漂着ごみがそのままで、悪臭を放っているものもある。えらい、がっかりだよ〜。
しかし、人が滅多に入らない、観光スポットでも何でもない海岸の多くは、日本中だいたいこんなものなのだろうか。
目の前に見える大きな島が六連島で、これは山口県。その西の小さな島々は福岡県。北九州市の戸畑・若松の臨海工業地帯も、すぐそこに見えている。ここは関門海峡の西の出入り口で、昔から朝鮮通信使や数度の戦役など半島との往来では日本の玄関口の役目を果たしてきたところだ。ごみが流れ着くのも、海流の関係その他いろいろワケがあるのだろう。
長州藩が欧米の戦艦と戦った馬関戦争の舞台ともなったし、日清戦争の戦後処理をまとめた下関条約その他、歴史のなかで下関がその光と影の中に見え隠れしたことは少なくない。
歴史の不思議というのは、いろいろなところであてはまるが、とくにこの毛利長州藩が(おそらく)徳川幕府への怨念をベースとした部分もあって倒幕の中心となり、そのまま長州出身者が多く維新新政府を牛耳ってきたことは特筆ものであろう。
山口の人は「わが県は八人の宰相を排出した」と自慢する。事実、山口県はどんなところに行っても、隅々まで道路がきれいに整備されている。だが、長州藩に限らず、“ほんとうに有為の才は動乱の過程で失われ、生き残ったカスで新政府がつくられたのだ”という説にも一理あること、そして長州八宰相のうち四人までが軍閥で戦争を主導したこともあわせて、その収支帳尻を考えてみなければなるまい。
それが戦後にも続いて、岸・佐藤・安倍と三人もの(そしていずれも血縁の)首相を出しているというのも、不思議なことだ。首相の名の「晋」の字は高杉晋作に因んだといわれるが、彼が縦横に活躍し、大政奉還を見ることなく死んだのもここ下関だった。その名の一字をいただく苦労知らずのおぼっちゃん首相は、いったい晋作のどこのどの部分に触発され影響されたというのだろうか。
少なくともその行動力や判断力ではないらしい。ましてや、その辞世にみるシニカルで透徹した思想はもとより、彼の作とされる“三千世界の〜”という都々逸の洒落っ気も、逆さにして振っても出てきそうではない。
竹の子島には、結局灯台も岬もなかったのだが、本州最西端の番外編として収録しておくことにした。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度57分12.69秒 130度52分41.27秒中国地方(2007/01/31 訪問)
この記事へのコメント
写真の位置より南西側の岬です。
南西側ですか。なるほど、今地図で改めてみると、こっちへ行った方が歩く距離も短くて、展望もよかったし、ゴミなど写さなくてもよかったのかもしれませんね。
そうか。
とにかく先っちょへ、先端へという気持ちで、島の北端をめざしたのですが、う〜ん、こういうこともよくありますねえ。
また遊びに来ます!!
ほかに、もっとおもしろいのもあるかもしれませんから、また寄ってくださいね。