1394 雄松崎=大津市南小松(滋賀県)近江舞子には昔泳ぎにきたことがあるしもっと古い昔の琵琶湖での忘れ得ぬことなど

 柳ヶ崎から北へは、唐松の松、堅田(かたた)の浮御堂といった昔の近江八景の名勝があるが、現在はどちらもすっかり住宅に囲まれてしまっているようだ。 湖西線の堅田駅付近には、琵琶湖大橋が架かっている。ここが琵琶湖南部で対岸との距離が1.35キロといちばん狭まっているところだ。そうだ。浮御堂までは大昔に来たことがあったのだ。それは、中学の修学…

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1393 柳ヶ崎=大津市柳が崎(滋賀県)JR湖西線の“大津京”という駅名は妥当か否かの歴史論争も

 東海道新幹線を降りた京都では、すぐに湖西線に乗り換え、大津京駅までやってきた。京都駅が始発の、この路線に乗るのもひさしぶり。記憶ではかつてはさびれた支線の一つに過ぎなかったが、敦賀までの直通快速もあるらしいし、今では湖西線の存在感は大きいものがあるようだ。敦賀方面に出るには、距離的には米原を回るより多少短縮される。 昔から、数少ない京…

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1392 茶ヶ崎=大津市茶が崎(滋賀県)皇子山や皇子が丘の“皇子”とはいったい誰のことなのか

 自分ではまったく運動もしないし、ジョギングはおろかラジオ体操もしないのに、なぜか他人が走るのを見ているのは好きなので、“びわ湖毎日マラソン”も毎年3月の声を聞くと春を感じさせる琵琶湖の風景を見るのが楽しみでもある。このマラソンコースは、ほとんど瀬田川マラソンの趣を呈しているが、そのスタート・ゴール地点が、皇子山総合運動公園である。 茶…

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番外:やっぱりこっちのほうは鬼門だった(滋賀県・福井県)琵琶湖・越前海岸・敦賀・三方の岬めぐりはパプニングだらけ

 ひさしぶりの東海道新幹線である。通常は「のぞみ」に乗るときは、横須賀線で品川まで行ってそこで新幹線に乗り換えるのがいちばん便利なのだが、今回は「ひかり」なのでこの場合は東海道線で小田原まで行き、そこから新幹線に乗り換える。 ウエザーマップの予報を眺めながら、出発日を選んでいたが、計画を決めて予約をとったとたんにまた予報が変化して、傘の…

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番外:東海汽船「橘丸」=三宅島から竹芝桟橋へ(東京都)三代目の柳原良平カラーリングは正直言ってちょっと?だが…

 東京生まれ東京育ちの友人が、昔学校の修学旅行か何かで大島へ行ったときに乗った船の名が「橘丸」であったという。船の名も襲名されることもある(漁船などは“第八十三なんとか丸”のように番号だけ変えるのが多い)ようで、この現在の「橘丸」は三代目にあたるらしい。 東海汽船の前身である東京湾汽船が、大正時代に建造して運航していた小型貨客船を一代目…

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1391 クラマ根・三池港=三宅村坪田(東京都)三宅島一周の輪を閉じるここから雄山山頂までは真西に4キロくらい…

 「1377 サタドー岬」から始まった、三宅島の岬めぐりも、やっと逆時計回りで一周の輪を閉じる。この項目も、その輪を閉じるためにむりやりつくったことになるのかもしれない。 ここはクラマ根という表記はあるが岬ではない。しかしこの根はここだけ大きく長く東海岸で飛び出ていて、しかもその岩根をフル活用してつくられたのが、三池港であるらしい。 こ…

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1390 ベンケ根岬=三宅村坪田(東京都)三宅島空港の東に張り出した広い溶岩台地…という表現は順序逆だけどね

 ツル根岬や大路池に行ったのは「橘丸」に乗って芝浦桟橋に帰る日の早朝であり、ベンケ根岬へ行ったのは「橘丸」で錆ヶ谷港に着いた日の午後になった。 したがって、実際に歩いて行ったり来たりした順序とはこれも逆になるのだが、ここでは逆時計回りに三宅島の岬を繋いでいる。実際には大路池からは、次のバスでまた引き返して、伊豆岬入口まで行ったのだが、そ…

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1389 ツル根岬=三宅村坪田(東京都)アカコッコ館からツル根岬を目指したもののこれが藪の中に突っ込んで道が消え…

 大路池からツル根岬にかけての一帯も、もちろん溶岩の流れた大地なのだろうが、それは2500年前の大路池ができた噴火活動の時期かそれよりももっと前のことであろう。その後は大きな溶岩流はこの付近を襲っておらず、照葉樹林帯が一面を覆っている。 都道からみてもそこにあるはずのマールはさっぱりわからないが、その先端のツル根岬へは、地図でみると二本…

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番外:大路池=三宅村坪田(東京都)なかなか簡単にはま〜るく収まらないま〜るいマールのことなど…

 専門家の説明がシロウトにわかりにくい原因のひとつは、専門用語をいとも気軽に振り回し、それですべてが済んだかのような終わり方をするからである。専門家同士ならそれでもかまわないのだろう。また、同時にいろんな専門用語表現を使い分けるのかどうか知らないが、あっちの説明とこっちの説明で違う用語を平気で使ってフォローしないということがよくある。こ…

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1388 新鼻=三宅村阿古(東京都)この“新しい鼻”がいつ頃そう呼ばれるようになったのかは誰も知らないのか!知りた…

 新鼻(にっぱな)という名は、当然に“新しくできた鼻”をさした命名であろう。とすると、この名はいつ頃につけられたものなのだろうか。 三宅島では最南端にあたるこの出っ張りは、付近全体では大きく南に張り出してはいるが、新鼻と名付けられた岬は、ほんの少しそこから飛び出す形で岩棚が海に突き出ている。その先には、新鼻ハナレという細長い岩島がある。…

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番外:新澪池跡=三宅村阿古(東京都)池が池でなくなったときそれが問題だと思うのはでんでんむしくらいのものなのか

 新澪(しんみょう)池跡には、バス停のほか休憩スペースやトイレ、それに駐車場があるので、おそらく薄木から坪田までの間を走る車にとっては、重要なポイントになるのだろう。駐車している車も1台、また後から1台増えたが、どうやらいずれも釣り人の車らしい。 ここでは、新澪(しんみょう)池跡の“跡”もポイントである。つまり、かつては池だったものが、…

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1387 新鼻新山=三宅村阿古(東京都)“火柱”のメモから想像してみる新鼻の“一夜山”ができたときのこと…

 1983年の噴火の記録はそれなりにあるが、やはり誰かがそれをずっと観測していたというようなものはないようだ。誰かがカメラをずっと回し続けていたりすれば、その様子も明らかとなるが、こういう場合、まずそれは望めない。今なら、スマホで撮った動画をすぐアップする人がいるだろうけど。 新鼻(にっぱな)付近の様子も断片的な目撃情報などをつなぎあわ…

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1386 薄木・粟辺の無名岬=三宅村阿古(東京都)溶岩流が海に達してできた“吾輩も岬である。名前はまだない”

 まだ2000年噴火のずっと以前に、三宅島の2万5000分の1の地図を買ってきて眺めていたことがある。どういうわけか、火山島に行ってみたかったのだ。そのときは、結局地図を眺めるだけで終わったのだが、島の南部の地形に引きつけられた。大小のマール(水蒸気爆発によってできる縁のある円形火口)がいくつもあるし、北から南の海に向かう溶岩流の形跡が…

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1385 間鼻=三宅村阿古(東京都)大国主の息子さんご一家が祭神の富賀神社こそが恐れ多くも伊豆七島の総鎮守なのだ

 この島の神様である事代主命(ことしろぬしのみこと)と伊古奈比姫命のことについては、「1381 大崎=三宅村神着」の項や椎取神社のところで書いていたのでもう解決したと思っていたら、とんでもない。解決しておりませんでした。 三宅島だけでなく、だいたいにおいて伊豆諸島の神様は、三島神社の祭神である事代主命とそのファミリーで統一されているよう…

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番外:鯖ヶ浜と鯖ヶ浜港=三宅村阿古(東京都)赤い今崎海岸に続くニビイロのサビガハマは「橘丸」の寄港地

 東京芝浦の竹芝桟橋を出た船や、運よく欠航にならずにやってきた八丈島・御蔵島からの船が出入りするここは、錆ヶ浜港(さびがはまこう)。 全島避難が解除になって以来、三宅島の玄関口の役目を果たしてきている、島の西側にあるこの港は、もともとはサブの扱いで、東側の三池港が使えないときに西のここに接岸するだけであったようだ。 どういう影響があった…

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1384 今崎=三宅村阿古(東京都)1643年(寛永20)年の噴火でできた溶岩扇状地の海岸はたくさんの“鼻”が集ま…

 今崎は、錆ヶ浜港の南に見えている、平たくて大きく丸い岬である。西へ張り出したその先端部は、三宅島の最西端でもある。夕景浜から錆ヶ浜まで、1.5キロにわたって続く断崖の海岸は、今崎海岸として括られ称されることが多く、今崎という岬をひとつ特定して取り上げることはあまりなさそうである。 三宅村の釣場案内によると、地理院地図が「今崎」ひとつの…

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