改めて繰り返すと、今回の計画では八丈島の岬めぐりが一巡した後で、東海汽船の「橘丸」で三宅島に渡り、三宅島の岬を一巡りしてまた「橘丸」で八丈島に戻り、八丈空港からゆっくり午後の便で羽田へ帰る…というつもりであった。 そして、八丈島と三宅島を結ぶ航路が発着する港が、三根の底土(そこど)港である。 明日は底土港から船に乗ってという前日から、…
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八丈島の最東端はどこか? おそらく誰も、そんなことを知りたいとは思わないのだろう。それに、ここが東端だ西端だと言ってみても、そのこと自体がさして意味をもたない場合のほうが多い。だが、要所要所では確認しておくと、だんだんと地理間隔が確かになるはずだ、と思う。 南端は、明らかに前項の小岩戸ヶ鼻だったわけで、これは大きく南に飛び出して、島の…
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中之郷の集落からは、次の末吉の集落まではおよそ5キロ近い道を東北方面に向かって進まなければならない。都道を走るバスに乗っていると、大きく飛び出た小岩戸ヶ鼻の山塊の付け根を横断して行くことになるが、この区間で景色が変わるのだ。 あれっ? いったい今自分はどこを走っているのだろう、というような感じがするのは初めての時で、二度三度と乗って往…
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八丈島町営バスと町営温泉がセットになったフリーパス“バ・ス・パ”を、最大限活用して、東山の南麓に集まっている温泉にも入ろうかと考えていたが、ちょうど樫立の温泉が休業にあたっていて、結局入浴できたのはふたつだけだった。 そのひとつは中之郷温泉。ここには、ふたつの温泉施設と足湯があったが、下のほうの温泉でゆったりしていたら、もうひとつの上…
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ひょうたん八丈島の下のほう、東山(三原山)の南側では、住所表示が西から樫立、中之郷、末吉と三分割される。これらは、いずれも東山南麓の150メートルくらいのところを通っている都道215号線に沿って、それぞれの集落が続いていくからだ。 樫立と中之郷はほとんど隣につながっているが、末吉だけは山を一つ越えた東にはずれている。そして、人家のない…
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大賀郷から横間ヶ浦のほうを見たときに、横瀬という断崖の岸はゆるく巻いて南東へ連なって消えていた。奈古ノ鼻は、その断崖の岸が東へ回り込んだところにあたる。したがって、北側からは見えていなかったこの岬を見るのは、大坂隧道を抜けて南へ向かわなくてはならない。 ここも、これまでの八丈島の岬と同様で、岬と言っても海岸に岩の根が飛び出しているくら…
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ひとまず、これで初日の日程は終了である。これから八丈富士南麓の標高80メートルにあるホテルまで戻るわけだが、長崎からはほぼ一直線に、北へ伸びている広い道路が溶岩台地のスロープを上っている。 この日は早朝羽田を発って、ホテルから乗ったタクシーを出発点の赤崎付近で降り、それ以来ずっと歩きづめに歩いてきた。その距離はおよそ12キロくらいにな…
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ときどきふれていることだが、実際に見る風景と地図でのイメージを一致させるのにちょっと苦労する場合がある。ここもその例で、いかにも立派な岬なのに、なんで無名なの?と思ってしまう。だが地図を冷静にみると、ここは岬でもなんでもなく、ただ、ゆるく孤を描いて伸びる断崖の海岸線なのだ。 そこはもう西山のテリトリーでもなく東山の範疇に入るのだが、こ…
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都道から分かれて海岸を南に下るときから、前方に大きな岬が伸びているのが見えていた。そのずっと手前が八重根港で、そこから屋けんヶ浜さらに西に大潟浦と南原千畳敷からの溶岩台地が続いている。 その屋けんヶ浜と大潟浦の間にあるのが長崎。長崎は、船戸鼻からは東へ1キロ弱のところにある。 この名前の岬も多いが、その名が実際に長さが長いからという理…
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「船」のついた岬が続くが、ここも決して船が寄せるに適した場所とは思えない。なにしろ海に溶岩がなだれ込んだ、そのままが固まって、黒い広い岩場のだたなかに、その岬の名は記されているからだ。 船付鼻といい船戸鼻といい、どうしてこんなところに船の名をもってきたのだろう。溶岩の間を利用したという可能性もあるが、岩に波が絶えず打ち寄せて高く白い飛…
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今崎から南へはほぼ真っすぐに、八丈小島を眺めながら都道が下っていくが、この付近からは植生が低くなり、道路から下が見通しが利くようになる。火潟、エイガ潟、荷浦と名前のついた海岸の岩場もあるが、この付近は50メートルの断崖が2キロに渡って続いている。このため、道路から海は見えるものの、ほとんど海岸を見ることができない。 この2キロの断崖が…
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八丈小島やひょうたんの南のふくらみをつくっている東山(三原山)の噴火形成からは、だいたい数万年くらいも遅れて出現したのが、西山(八丈富士)である。 先にできていた東山と後からできた西山が、その後に連続して続いた火山活動によってくっついて、結果的に現在のようなひょうたん型になったものだ。 東山のほうが古くてより長い地質変動の歴史を経験し…
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調べてみると、八丈小島が無人島になったのは、1969(昭和44)年の“全国初の全島民完全移住”から後のことであった。島からの移住を望む声が出始めたのは、その4年前の1965(昭和40)年頃からのようで、その年の国勢調査では、人口総数は123人で、これは明治初年の約4分の1であったという。翌年に出された住民からの請願書では、その理由を次…
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大越ヶ鼻の展望台からは、西南西に6.8キロのところにあるのが、八丈小島の最北端にあたる下立鼻である。最北端とは書いてはみたが、その東隣りに並んでいるヨオリヶ鼻とほぼ横並び、若干ヨオリヶ鼻のほうが出ているか、という感じもする。 だが、東の斜め北寄りから見ているわけだから、見えている岬の先端部分は、明らかに西の下立鼻であるはずだ。 とはい…
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永郷小学校があったことを語ってくれるのは、都道脇の「八丈町立永郷小学校跡地記念碑」である。なんとなくぎこちない感もあるその碑文の文言を読んでみよう。 八丈小島を望む大越が丘に昭和32年度より昭和49年度まで八丈町立永郷小学校が建てられていました。 小さな学校に大きな夢を持った児童が学んでいた場所でした。 児童数減少により昭和50年3…
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