北海道の開拓地では、どこでも同じようなことがあったのだろうが、湧別川の流域と河口付近に和人がやってくる前は、アイヌがその雄大な自然のなかでムリをせずに、自分たちのリズムで暮していたことだろう。そのもっと前には、石器時代独特の様式をもつ黒曜石などの遺物も発見されているので、北海道も“人も住まぬ未開の地だった”などと片づけるのは間違ってい…
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流氷を見に初めて紋別へやってきたのは、1986(昭和61)年の2月だった。その頃は、岬めぐりも出張のついでくらいしかできず、また主だった岬だけでいいやと考えていたため、紋別に3つも岬があることが意識になかった。もっとも、そのときに見たとしても雪と氷で一面海も陸も区別がつかないほどだったので、どれが岬だかわからなかっただろう。 今では紋…
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チカプノツ岬の表記は、地理院地図でも縮尺が500mと示される大きさでないと出てこない。目盛一つ上の縮尺が1000mの地図になると、チカプノツ岬の名は消えてしまうが、ウエンヒラリ岬の表記はある。ウエンヒラリ岬と紋別港の弁天岬の表記は、縮尺が4kmの地図まで出てくる。 このことからも、チカプノツ岬のほうはだんだん影が薄くなっているようで、…
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紋別に入る道で、大きなトラクターのようなものを載せた車両がのろのろと走っていて、その後ろについた白い乗用車がバックライトを点滅させながらゆっくりくっついていく。後から来る車に、追い越しを促しているらしい。 追い越しざまにバスの窓から見ると、それには幅広の黒いベルトのようなものがついていたから、おそらくは牧草を刈り取ってペールにする目的…
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興部町の南に位置する沙留(さるる)は、オホーツクラインの真っすぐな海岸線にできたコブのような固まりで、そのうえに集落ができ、東の付け根には漁港ができている。 コブの西北の先端が沙留岬で、そこだけまたちょこんと飛び出ていて、岬と漁港の間が緩くカーブしながらでこぼこの岩礁地帯が続く。地理院地図ではその岩礁から岬にかけての沖合に、黒い点々が…
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「人口5,000人程、牛の数は12,000頭、コンビニ2件、映画館はナシ。でも海水浴場に、ナイターが楽しめる野球場、冬でも遊べるテニスコート・ゲートボール場などもあります。」そう紹介をする“おこっぺファンくらぶ”や、130号を超えて続いている“町長日誌”など、なかなかユニークで一生懸命な町のホームページをもつ興部町は、最新(2014年…
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雄武と興部の間の旧興浜南線が走っていた区間も、バスで往復したことになるのだが、この区間のバスは北紋バスである。日の出岬では、北紋バスは国道から海寄りの脇道に入り、岬をぐるっと回ってからまた国道に戻るように路線が敷かれている。 この付近ではひときわ目立って大きく飛び出しいる日の出岬は、国道からは1.4キロくらい突き出ていて、裾の両端に沢…
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モダンな展望台を備えたその建物には、商工会議所のようなものも入っていて、1Fが道の駅とバスの待合室になっている。雄武のバス停は、「おうむ道の駅」の前にある。 その場所は、国道238号線からロの字になってバスの動線が引き込まれているので、この場所がかつての興浜南線の雄武駅の跡なのだろう。南線の起点終点であり、興浜線の工事が北へ向けて始ま…
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郡界から9.5キロも南東へ下ると、こんどは音稲府(おといねっぷ)岬である。その途中には、枝枝幸(えだえさし)という集落もある。だが、ここは枝幸ではなくて雄武(おうむ)。雄武の中に枝幸があるとすれば、これはかつての飛地の名残か、と思ったりするがわからない。 北海道の地名のほとんどは、アイヌの名がそのまま残っていることが多いのだが、アイヌ…
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音標(おとしべ)岬は、枝幸からは南東方向に約33キロほど下ってきたところにある。北から見たところと、南から見たところを並べてみても、ただ平たい単なる防波堤護岸のように見えるが、多少の丘もくっついている。 枝幸市街地を出てエサシウエンナイ川を越えて行くと、国道238号線は左手に海、右手に原野と牧草地や牧場が続くなかを、北見幌別川、徳…
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枝幸町(えさしちょう)は、同音の読みで渡島半島に江差町があるので、言葉で表現するときには「北見枝幸」と「檜山江差」と区別されることがあるが、相互に関係はないらしい。 北海道最北端の宗谷総合振興局管内の南端にある枝幸町は、管内では面積はいちばん広いが、それは山側の歌登町と平成18年に合併しているからだろう。2014年の住民基本台帳人口は…
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平坦でほぼだいたい真っすぐな道を行くオホーツクの岬めぐりは、岬の数も多くないうえにその行程距離は長く、コストパフォーマンスはよくない。しかも電車(気動車を含む)がほとんど通っていないので、バス利用になるがそれも数社のバス便を乗継いでいく。フリー切符なども用意されていないので、およそ観光客がたくさんふらふらやってくるところではないのだろ…
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オホーツク海に面した北海道の北東部海岸は、日本でいちばん長い、ほぼだいたいおおむねまっすぐな海岸線である。日本最北端の宗谷岬から南東方向に向かって斜めに延びるこの線は、おおよそのところオホーツクラインという名もある国道238号線で辿ることができる。 宗谷岬〜網走の間は274キロ、網走から斜里までの244号線をプラスすると310キロもあ…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 50年分走り続けてきたので、くたびれた。年表連載は前半終了、ということで、ここらでちょいとひとやすみ。前半の終了はやはり講和までいかないと、ということで、1951年まで…。後は残りは続きは? さあ、今んとこそれはわかんない…。(しばらく、また隔日の通常ベースに戻ります。20…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? ❖年表の元ネタ主な参考資料:三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。1950昭和25年 庚寅(かのえとら)◯ソ連が国連安全保障理事会に国府の除名を提案。否決さ…
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鷲崎漁港からバスに乗りっぱなしで、両津湾まで南下してきて、いよいよ佐渡一周最後の岬は玉崎。ところが、これがまた極めてぱっとしない。どれがそうでどこが岬なんだかよくわからないままに通り過ぎてしまった。 なにしろ、前項の坊ヶ崎と玉崎の間は、地図で計ってみると300メートルも離れてはいない。坊ヶ崎はそれでもまだ多少の膨らみも出っ張りもなかっ…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? ❖年表の元ネタ主な参考資料:三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。1949昭和24年 己丑(つちのとうし)◯ソ連と東欧五か国が経済相互援助会議(コメコン)を…
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浦川の南にある集落が平松で、そこからまた平松トンネルで善法寺岩を過ぎると、北松ヶ崎という集落になる。この付近はいくらかのでこぼこはあるにもかかわらず岬の名はない。 馬首、和木ときてやっと坊ヶ崎。ここの地名は玉崎で、玉崎という岬も別にあって、それはほとんど坊ヶ崎とくっついている。つまり、同じ玉崎という地域の海岸に、坊ヶ崎と玉崎と、ふたつ…
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