われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。 この年表は、主に三種類の元資料(以前から愛用の三省堂・小学館版二種に新たに河出版をプラス)を突き合わせながら、でんでんむし自身が理解できるように、主な歴史の動き、流れをだいたいでいいから、改めてなぞってみようという目的のためにつくっている。 その年がどういう年であったのかを…
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北片辺の藻浦崎も、バスの車窓から…と思っていたのだが、ここは失敗の岬になってしまった。南片辺、北片辺と軒を連ねる集落は、道の両側にみっしりと連なっていて、海岸側がまったく見えない。 その状態は、藻浦崎の道がカーブするところでも変わらず、道路からは岬の様子はまったくうかがい知ることができない。 わずかに、南片辺付近から北片辺の漁港とそれ…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。 この年表は、主に三種類の元資料(以前から愛用の三省堂・小学館版二種に新たに河出版をプラス)を突き合わせながら、でんでんむし自身が理解できるように、主な歴史の動き、流れをだいたいでいいから、改めてなぞってみようという目的のためにつくっている。 その年がどういう年であったのかを…
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北の海に向いた北狄集落は、大崎と北狄川が流れてくる谷に挟まれて固まっている。その南側の山から落ちてくる緩斜面にも、田圃は広がっている。 こうした海岸段丘の田圃は、北狄から北へ戸地、戸中と続いていくようだ。 北狄から乗ったバスは、少し小ぶりで座席が左右に一列ずつしかないが、そのすべての座席が空席で、貸切状態である。 このバスの車窓に、次…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。 この年表は、主に三種類の元資料(以前から愛用の三省堂・小学館版二種に新たに河出版をプラス)を突き合わせながら、でんでんむし自身が理解できるように、主な歴史の動き、流れをだいたいでいいから、改めてなぞってみようという目的のためにつくっている。 その年がどういう年であったのかを…
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小川・姫津と二つの大崎鼻が続いた後は、今度は大崎。そこへは、北へ向かっててくてく歩き始める。次のバスを待っているわけにはいかないので、できるだけ歩けるところは歩いておく。 北北東に向いている真っ直ぐな県道は、人はもちろん車もときどき走ってくるぐらいなので、そのときだけ脇へ寄れば道路の真ん中を歩いていても平気だ。後ろからくる車は、音でわ…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。 この年表は、主に三種類の元資料(以前から愛用の三省堂・小学館版二種に新たに河出版をプラス)を突き合わせながら、でんでんむし自身が理解できるように、主な歴史の動き、流れをだいたいでいいから、改めてなぞってみようという目的のためにつくっている。 その年がどういう年であったのかを…
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姫津というバス停でバスを降りると、まずは南に少し戻ってから西へ歩いて行く。姫津の大きな岩の出っ張りは、標高20メートルくらいの台地状になっている。その南側は、バスで黒島と達者を過ぎる辺りから眺めることができる。 その台地の中央の凹んだところに人家が密集して姫津の集落があり、姫津漁港ができている。 が、まずはそちらへは行かず、南の端まで…
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私たちはどこから来て、どこへ行くのか? これは、過去からこれまでの人類の永遠の疑問のように思えます。人びとは、この疑問に解を見出そうと、叡智を絞ってきました。 その結果、宗教が生まれ、哲学が発達し、さまざまな歴史が記され、宇宙や地球の謎が解かれてきました。人類が築いた学問体系とは、結局は、冒頭の疑問に取り組んできた成果なのだと思い…
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外海府海岸、というのが佐渡の北側西海岸の呼び名であるらしい。県道45号線が一本だけ通っていて、バスはひたすら北へ向かって走る。多くのでこぼこを伴う千畳敷から始まる岩の海岸風景は、それぞれ見どころもあるのだろうが、こちらはあくまでも岬めぐりオンリーでいく。 が、それも、全部が全部バスを降りて歩いて回ることはできない。車窓風景でつなげると…
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私たちはどこから来て、どこへ行くのか? これは、過去からこれまでの人類の永遠の疑問のように思えます。人びとは、この疑問に解を見出そうと、叡智を絞ってきました。 その結果、宗教が生まれ、哲学が発達し、さまざまな歴史が記され、宇宙や地球の謎が解かれてきました。人類が築いた学問体系とは、結局は、冒頭の疑問に取り組んできた成果なのだと思い…
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佐渡の弁天その5を数えたのは、小木の弁天崎だったが、その6の弁天さんは相川の弁天崎となる。佐渡の弁天の岬は、そのほとんどが南東海岸に集まっていたが、この西海岸にも2つあるのだ。 相川は、佐渡金山のお膝元の町で、佐渡奉行所もあって金山のお陰で成り立ってきたその昔は、町も佐渡の中心的な役割をもって繁栄していたのであろう。 現在は、七浦海岸…
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私たちはどこから来て、どこへ行くのか? これは、過去からこれまでの人類の永遠の疑問のように思えます。人びとは、この疑問に解を見出そうと、叡智を絞ってきました。 その結果、宗教が生まれ、哲学が発達し、さまざまな歴史が記され、宇宙や地球の謎が解かれてきました。人類が築いた学問体系とは、結局は、冒頭の疑問に取り組んできた成果なのだと思い…
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わずかな距離だけど、送るというホテルの人の車でバス停までやってきたのは、まだ朝も早いがラッシュは過ぎた時間。このあたりにラッシュがありそうにはないが、橘長手岬の停留所にやってきたバスには、一番前の席には先客があったので、最後尾の席に。 相川へ行くバスは、北に向かって走るので、海岸は左手になる。 前日は今にも降りそうで降らなかったが、こ…
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私たちはどこから来て、どこへ行くのか? これは、過去からこれまでの人類の永遠の疑問のように思えます。人びとは、この疑問に解を見出そうと、叡智を絞ってきました。 その結果、宗教が生まれ、哲学が発達し、さまざまな歴史が記され、宇宙や地球の謎が解かれてきました。人類が築いた学問体系とは、結局は、冒頭の疑問に取り組んできた成果なのだと思い…
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稲鯨の北に続く集落が橘で、ここにも小さな漁港らしきものもあるにはあるが、道路と集落の東に広がる田圃での農業が中心なのだろう。この橘から北にかけて、高瀬、大浦、鹿伏と、相川の手前までの東側には、台ヶ鼻よりももっと大きな溜池やダムがたくさんある。 タクシーは県道から離れて海に向かい、この日の宿である“ホテルみさき”に連れて行ってくれた。こ…
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私たちはどこから来て、どこへ行くのか? これは、過去からこれまでの人類の永遠の疑問のように思えます。人びとは、この疑問に解を見出そうと、叡智を絞ってきました。 その結果、宗教が生まれ、哲学が発達し、さまざまな歴史が記され、宇宙や地球の謎が解かれてきました。人類が築いた学問体系とは、結局は、冒頭の疑問に取り組んできた成果なのだと思い…
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大砂塵の吹き付けてくる先は、眼を開けていられないのでよく見通せないが、台ヶ鼻の出っ張りの南と西の端まで、この荒れ地が広がっているようだ。 そして、この西の端っこが城ヶ鼻で、ここはまた小さな飛び出しがあるので、ブルドーザーの侵攻からそこだけは免れているらしい。 台ヶ鼻灯台というバス停は、なんとなく中途半端な位置にある。青い門の柵がある場…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。この言葉を本のタイトルにしているのが、関野吉晴さんである。『グレートジャーニー全記録』(毎日新聞社、2006年刊)では、①移動編 我々は何処から来たのか/②寄り道編 我々は何処に行くのか、としているが、これもその冒険の壮途へのはなむけにもまとめにもぴったりなのだろう。 また、…
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前項から、いよいよ二つに分かれている佐渡島の北側の山並に取りついているわけだが、この台ヶ鼻はその北半分の山のうちの南端にあたる。 前項にも書いたが、佐渡金山メインルートは、おそらく沢根から相川へは最短距離の峠越えで往来したと思われる。そのルートは、現在では中山トンネルを抜ける県道31号線で、バスは本線が両津と相川を結んでいる。 本線と…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。この言葉を本のタイトルにしているのが、関野吉晴さんである。『グレートジャーニー全記録』(毎日新聞社、2006年刊)では、①移動編 我々は何処から来たのか/②寄り道編 我々は何処に行くのか、としているが、これもその冒険の壮途へのはなむけにもまとめにもぴったりなのだろう。 また、…
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前に佐渡の中心は、やはりふたつの山並に挟まれた中央部の平野だろうと書いていた。そうではあろうが、もっと正確には、中央部の南北の山裾の平野の外縁部、というべきだろう。 つまり、中央部そのもの(国中平野=“国仲”と表記している情報もあるが、ここでは国土地理院表記に従う)は、全体に広い田圃が占めており、集落はまばらである。 おそらくは、北東…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。この言葉を本のタイトルにしているのが、関野吉晴さんである。『グレートジャーニー全記録』(毎日新聞社、2006年刊)では、①移動編 我々は何処から来たのか/②寄り道編 我々は何処に行くのか、としているが、これもその冒険の壮途へのはなむけにもまとめにもぴったりなのだろう。 また、…
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塩屋崎は食パンの耳の上のほうにあたるが、ここはもう名前だけで岬としての姿はどこにも留めていない。 地図で見ると、港の護岸と堤防が伸びている付け根で、あたり一帯が広く埋め立てでできた造成地のようである。 大須鼻のほうからきて、国道350号線を走るとき、前方に見えてくる尾根の下付近が、もともとあった塩屋崎だったのではないか。 今は道路から…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。この言葉を本のタイトルにしているのが、関野吉晴さんである。『グレートジャーニー全記録』(毎日新聞社、2006年刊)では、①移動編 我々は何処から来たのか/②寄り道編 我々は何処に行くのか、としているが、これもその冒険の壮途へのはなむけにもまとめにもぴったりなのだろう。 また、…
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田圃があり真野湾が望める田切須の台地も、いよいよ北に向かって下るところで終わる。この下の、丸くなった海岸線に、大須鼻という名前がついている。そこは台地が北の端で落ち込んで終わるところで、三貫目沢という小さいけれど細くて深い切れ込みを流れる水流が、真野湾に注ぎ出るところでもある。 国道350号線が、右に大きくカーブしながら斜面を滑り降り…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。この言葉を本のタイトルにしているのが、関野吉晴さんである。『グレートジャーニー全記録』(毎日新聞社、2006年刊)では、①移動編が「我々は何処から来たのか」②寄り道編が「我々は何処に行くのか」としているが、これもその冒険の壮途へのはなむけにもまとめにもぴったりなのだろう。 ま…
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佐和田行きの小木線のバスに、潮掛鼻の高崎から乗ると、バス停にしかない「鉄砲鼻」と思しき付近から、国道350号線はどんどん坂を登っていく。 田切須崎は、この坂を上る途中の西側にあるのだが、当然ながら道路やバスの車窓からは見えない。 そこで、田切須崎そのものの写真は、弁天岩・高崎付近からの遠望ばかりにならざるを得ない。 こうして南側から見…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。この言葉を本のタイトルにしているのが、関野吉晴さんである。『グレートジャーニー全記録』(毎日新聞社、2006年刊)では、①移動編が「我々は何処から来たのか」②寄り道編が「我々は何処に行くのか」としているが、これもその冒険の壮途へのはなむけにもまとめにもぴったりなのだろう。 ま…
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“日本海の底”を見る河ヶ瀬崎から、北へ行く道路がなくなっているのには、少々あせった。その証拠には、その現場写真が一枚もない。とにかく、その崖崩れをなんとか渡り切るのに懸命であったらしい。 崩れそうにない足場を探しながら、ヤブと岩の崩れた崖のなかを乗り越えて、ようやく北の道があるところに辿り着いたら、ほっとしてしまい、前の方は見ても後ろ…
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われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。この言葉を本のタイトルにしているのが、関野吉晴さんである。『グレートジャーニー全記録』(毎日新聞社、2006年刊)では、①移動編が「我々は何処から来たのか」②寄り道編が「我々は何処に行くのか」としているが、これもその冒険の壮途へのはなむけにもまとめにもぴったりなのだろう。 ま…
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